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名わ後素、中斎と号し幼より読書を好み、長じて大阪の町奉行を助け、
のち
罪人を捕え訴訟を断じ、威名一時に高くなりましたが、後職を辞して、
生徒を教授して居ました。天保八年の飢饉に米価が高くなり、諸方に餓
死する者多く、平八郎之を見て奉行に説き、倉を開いて貧民に米を与え
度いと云いましたが、奉行わ容易に承知しませんので、自分の蔵書を売
つて飢民を助け、摂津河内和泉播磨等の百姓を煽動して、火を市中に放
やかた うち
ち、城代の館を攻めました。所が城代跡部山城守わ平八郎の軍を散々撃
くら かく
破り、為に平八郎わ一時姿を晦まし、一商家に匿れて居りましたが、捕
吏に囲まれて潔く自殺したのです、平八郎わ、常に王陽明と云う学者を
えら
慕い、其学を研究したばかりか、役人としてわ実に豪い人でした。死す
る時四十六。
紀元二千四百九十七年
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跡部山城守は
城代ではなく
東町奉行
挿絵は
名和永年か
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