Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.26
2000.4.28訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩騒動の芝居」
鵜野 漆磧

『難波津 13』近畿郷土研究会 1925.2 より




 後素先生大塩平八郎は、その当時に於ける対政府の叛逆者であつたが、その行動は一般的に善意を以て迎へられた点に就いては、明治丁丑役の西郷隆盛と同じやうである。そして其の死に就いて異説の伝えられているのも亦同じやうである。

    

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 世に所謂大塩騒動の勃発したのは、天保八年丁酉二月十九日のことで、この事件が始めて演劇に脚色されたのは、事件後三十五年目の明治五年七月、東京村山座―猿若町市村座が興行上の仮名―に於て、外題は『浪花潟入江大塩』先代阪東彦三郎が大塩平八郎、三好屋五郎兵衛、小西屋後家お春の三役を勤め、一座は沢村訥升(今の市村宗十郎の父)、阪東家橘(今の中村羽左衛門の父)等で上演したが、江戸の土地に縁故の薄い事件だけに、不入りであつたため、十五日間で休場した。

 その後、明治十五年五月、東京本郷春木座で、前記の訥升が助高屋高助と改名して後に演じた。

    

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 さて我が大阪での初演は、東京より一年後れて明治六年九月、角の芝居に於て、外題は『大汐噂聞書』、一座は市川右団次(先代)、尾上多見蔵(先代)等で、三桝大五郎が平八郎に扮してゐたが、この興行中に大五郎は歿し、代役を市川鰕十郎(先代)が勤めた。自分の記憶に依ると、当時此座の狂言作者は勝能進(かつのうしん)であつたと思ふが、何分その時代のことゆえ、事実よりも所謂狂言綺語の方が多かつたのは言ふまでもない。

 第二回目は明治二十年一月、道頓堀戎座―今の浪花座―に於て、『大塩平八郎言行録』といふ外題で、中村宗十郎が平八郎と般若寺村の忠兵衛とに扮し、一座は中村雀右衛門(先代)、嵐吉三郎 (先代)、片岡我当(今の片岡仁左衛門)などであつた。

 この頃は演劇改良論が可なり盛んであつたため改良好きの宗十郎は、当時大阪朝日新聞記者であつた宇田川文海氏などと大塩研究をやつたもので、作者は勝諺蔵(勝能進の子)であつた。この時の研究によつて、大塩騒動勃発当時の平八郎は事実薙髮していたから、そのつもりで演じるがよいとの議論もあつたが、宗十郎は、坊主頭では困るといつて夫れだけは事実通りにやらなかつたといふ。但し此の芝居は好評であつた。

 第三回目は明治二十二年十一月、『大汐噂聞書』を、尾上卯三郎、市川瀧之助(今の片岡長太夫)等が道頓堀浪花座で演じ、第四回目は明治二十四年十二月、道頓堀朝日座に於て、『噂大塩八坂聞書』という外題で、故中村時藏(今の吉右衛門の父)沢村訥子等が上演した。この時は京都八坂の豊田貢の捕物を主題としたものであつた。

 また第五回目は明治三十六年一月、弁天座で、高安月郊氏作の『大塩平八郎』を、福井茂兵衛、村田正雄、故木村猛夫等一座で演じた。この芝居は木戸銭一人前三銭五厘という頗るプロレタリア向の値段であつたが、それでも不入で、僅か十日ばかりで舞納めた。

 第六回目は明治四十一年十月、同じく月郊氏作に『言行録』を併合の脚本を『大塩平八郎』と題し、角の芝居で片岡仁左衛門が上演した。所が、これも不入で、予定の日数を打たずに休場した。

            

(挿図 大塩平八郎肖像)

 また人形浄瑠璃で、此の大塩騒動が興行されたは、明治十二年六月、大阪平野町御霊神社境内の土田席―現今、恵比寿神社のある位置に東向の小屋であつた―に於て、外題は『浪花大汐譚』といふ十一段物であつた。また確かには断言出来ぬが、明治の初年、道頓堀の阪恵座―若太夫座の後身―でも興行したことがあるようにも思はれる。

 騒動後、幕府から廻された人相書に依ると、


          大 塩 平 八 郎
              年齢四十五六歳
              一顔細長く、一色白く、一眉毛細くして薄く、
              一額開き、一月代青く、一眼細くして釣り、
              一鼻常体、一背常体、一中肉、
              一言語さはやかにして鋭し。
と書いている。そして平八郎の墓は北区天満東寺町成正寺にあり、明治卅年十月、門人田能村癡(直入)が建立したものである。

   

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 天保の大塩騒動に加担した人々の姓名を見ると不思議に水に縁故のあるものが多い。曰く渡辺良左衛門、曰く瀬田済之助、曰く小泉淵次郎、曰く深尾才次郎、曰く橋本忠兵衛、曰く大井正一郎、曰く高橋九右衛門、曰く白井幸右衛門、曰く柏岡源右衛門。この以外に、平八郎の陰謀に与し、半途にして逃亡し遂に行方不明となつたものに、大坂東組同心河合郷左衛門があり、その郷左衛門が伜河合八十次郎は、騒動勃発の払暁寅の刻(午前四時)大坂西町奉行所の門を敲いて、大塩異心の訴状を持参したもので、八十次郎は当時十八才であつた。

   

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 大塩父子の裁許書中、平八郎が養子格之助に娶すべき約束で養つていた橋本忠兵衛の娘みねと通じ一子弓太郎を挙げたという一條がある。これは事件の訴状を認めた吉見九郎右衛門が『伜へ可娶合積之養娘を竊に自分妾にいたし男子出生仕候に付殊の外相歓』と書いていることが原因をなしてゐるのであるが、若しこれが事実であらば、大塩父子の間には意志の阻隔を見るべき筈であるに、格之助は厚く養父に仕へてゐた一事から見ても、この不倫の行為ありとするは我が大塩後素を誣ゆるも亦甚しいもので、仮にも一旦師と仰いだ平八郎に無実の悪名を着せた九郎右衛門の罪は真に軽からざるものである。

  

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 茲に一つの伝説がある。曰く、世に切支丹婆と称せられた京都八坂の豊田貢が、平八郎のために羅織され、邪宗門を広めた廉で磔刑にかけられた時、『おのれ大塩、この恨み知らせてやる』と物凄い最後の声を残したが、不思議なことには、この婆の十三回忌が廻り来つた天保八年酉年には、大塩の死首に謀叛人の札をつけられ、幕府の手に渡つた。更に不思議なのは、大塩が歿後、六度目の酉年を迎えた明治四十二年には、神道天理教が我が日本の公然の宗教として、内務省から許可を受けたことである。

 平八郎と天理教、それには次の如き因縁が絡まつてゐる。曰く、天理教の教祖中山美伎女は切支丹婆の子である、豊田貢の娘である。貢が刑死の砌、密に大和に逃げて、さる農家に人となつたのであると。この伝説は恐らく、貢の刑死、平八郎の焚死、天理教の許可、そのいづれも偶然酉年の出来事なるより附会されたものであろう。

    

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 また一説がある。大塩格之助と弓太郎、この父子は遠く薩摩に落ちた、かの明治丁丑の乱に西郷隆盛の右の手といはれた桐野利秋は、即ち大塩格之助の後身であると。

 更にまた一説がある。曰く、大塩平八郎と格之助、二人は遙々と欧洲へ逃れたと。この説については、大阪市内東区八丁目中寺町、雲上山龍淵寺の境内に、北面して立つている一基の墓がある。題して『秋篠昭足之墓』という。この墓石の三方に彫まれた文に依ると。

 秋篠昭足は東坊城氏の庶出で、大塩家とは戚属関係があり、無論アノ騒動には参加してゐた。さて大塩方が敗れた時、昭足は大塩父子等十二人と河内に逃げ、土窟の中に隠れてゐた。昭足は以前、肥前天草の僧某と別懇であり、その世話で天草の長岡氏の娘を娶つてゐた。その縁故で、昭足及び大塩父子其他の一行は、密に海に泛んで天草に遁れ、一年余の後、支那に渡り、更に数年の後、大塩父子は欧羅巴に向ひ、昭足は其徒三人と長崎に還り、医を業とし、天草島原の間を往来していた。昭足には二人の娘があり、末の娘は明治五年に奥並継という人に嫁した。その後、昭足は大阪に還り、姓名を伊藤吉平と改め、明治十年十一月十五日八十四才で歿し、城東龍淵寺に葬つた。

とある。この墓は明治廿三年十月に建てられたもので、この文を書いたのは、昭足の末の娘を妻とした奥並継氏で、この人は明治政府に仕えて四等編修官となり、正七位に叙せられた。この文章で見ると、大塩父子の欧洲落ちも全然否定することは出来ぬやうである。奥並氏は其の岳父のために此の墓を建てた後、『大塩平八郎父子欧州に失踪す』との題で、前記の事柄を或る史学雑誌に発表したことがあつた。しかし此の欧洲渡航説は、全然否定することが出来ぬと同時に、尚ほいまだ肯定するだけの他の証拠が存在せぬ。

    

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 大塩騒動、及び大塩父子に関したことを書いたものは、随分世に多く伝はつている、自分の乏しい見聞だけを挙げても、左の如く数へられる。

 まだこの以外、『大塩平八郎』(幸田成友氏著)『大塩平八郎伝』(石崎東国氏著)、『大塩平八郎』(森林太郎氏著)、など数へ来れば枚挙に遑ないほどである。


本文では著者は、「野漆磧」となっていますが、誤植と思われます。
 『大塩平八郎を解く』(大塩事件研究会 1995)第二十三話「文学や演劇にとりあげられた大塩 −乱の直後から芝居で大うけ−」では次のように書いています。

参考■大岡欽治「大塩事件の劇化上演の記録 上・中・下」 (『大塩研究 5〜7』所収)
劇場統計

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