Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩の乱」

吉田助治

『徳川三百年』(少年国史叢書10) 子供の日本社 1926 収録

◇禁転載◇

四 大塩の乱

管理人註
   

 天保三年から不作の年が続き、七年には殆んど作物が獲れなかつた為め に、米価がむやみに高くなり、江戸の市中でさへも、飢死をする者が出来 る様になつた。此頃大阪の町奉行附の与力に大塩格之助といふ者があつた。 父は平八郎と云つて隠居をして文武の道を教へてゐたが、江戸ではずつと 前から貧民に施しをしてゐるのに、大阪町奉行は平気で居るのを見かねて、 貧民を救ふ様にとの建白書を出した。然し町奉行は「江戸へ伺つてからで なければきめられない。」と呑気にかまへてゐる。平八郎はなほも、そん                         こめぐら なにむだな時日を費してゐる時ではない。一日も早く米庫を開いて、貧民 を助けて貰ひたいと頼んだ。ところが町奉行は怒つて格之助に向ひ「お前 の父は気が狂つたと見える。」と云つて書面を返してしまつた。  平八郎はそれなら覚悟があるといふので、先づ自分の本や家財を売つて、 その代金を施し、更に仲間を集めて、天保八年二月十九日の朝、町奉行を ねらひ撃をし、続いて貧民共を金持の家へ暴れ込ませる手筈までしたが、 ついその事が知れてしまつた。そこで平八郎は、その日、先づ自分の家を 焼き払つたのを合図に、諸々に放火させ、どさくさまぎれに金持ちを襲は せたが、町奉行の方でも十分手配りをしてゐたので、思ふ様に行かず、平 八郎父子は一時隠れてゐたが、自殺をしてしまつた。時に平八郎は四十六 歳であつた。          たひら  大塩の乱は簡単に平いたが、これに刺戟されて、越後の柏崎には同じ様 な騒動が起つて、天下太平とあくびをしてゐた幕府を驚かした。これ等の 騒動は小さかつたが、後に幕府を倒す、最初の一発であつたのである。

   
 


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