天保三年から不作の年が続き、七年には殆んど作物が獲れなかつた為め
に、米価がむやみに高くなり、江戸の市中でさへも、飢死をする者が出来
る様になつた。此頃大阪の町奉行附の与力に大塩格之助といふ者があつた。
父は平八郎と云つて隠居をして文武の道を教へてゐたが、江戸ではずつと
前から貧民に施しをしてゐるのに、大阪町奉行は平気で居るのを見かねて、
貧民を救ふ様にとの建白書を出した。然し町奉行は「江戸へ伺つてからで
なければきめられない。」と呑気にかまへてゐる。平八郎はなほも、そん
こめぐら
なにむだな時日を費してゐる時ではない。一日も早く米庫を開いて、貧民
を助けて貰ひたいと頼んだ。ところが町奉行は怒つて格之助に向ひ「お前
の父は気が狂つたと見える。」と云つて書面を返してしまつた。
平八郎はそれなら覚悟があるといふので、先づ自分の本や家財を売つて、
その代金を施し、更に仲間を集めて、天保八年二月十九日の朝、町奉行を
ねらひ撃をし、続いて貧民共を金持の家へ暴れ込ませる手筈までしたが、
ついその事が知れてしまつた。そこで平八郎は、その日、先づ自分の家を
焼き払つたのを合図に、諸々に放火させ、どさくさまぎれに金持ちを襲は
せたが、町奉行の方でも十分手配りをしてゐたので、思ふ様に行かず、平
八郎父子は一時隠れてゐたが、自殺をしてしまつた。時に平八郎は四十六
歳であつた。
たひら
大塩の乱は簡単に平いたが、これに刺戟されて、越後の柏崎には同じ様
な騒動が起つて、天下太平とあくびをしてゐた幕府を驚かした。これ等の
騒動は小さかつたが、後に幕府を倒す、最初の一発であつたのである。
|