Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.1.14

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大塩の乱関係論文集目次


「箚 記 の 註 解 を 終 り て」

吉川延太郎

『洗心洞箚記』(1939 三田村高治) より


◇禁転載◇

 私の家は二百余年数代を大阪に在住していた。私の幼児、遠縁に当たる同郷の友人方にいた、同じくその家の姻戚である九十才を過ぎた老婆の近親に大塩の関係者があり、自分も白州に立ったことがあったとかで、その家に集まる少年達に自分の思ひ出を聞かせていたことがあった。

 それから今一つは私の檀家寺である、上本町五丁目から東へ入った。(その頃八丁目寺町と称した)無量寺の先住だった老僧の話に、大塩父子が、この寺の床下に数日間潜伏していたのを、当時の住職が竊かに食事を床下へ運び、出来るだけ庇護した末、警戒の怠るを待ち、大阪より脱せしめたとのことであった。この話は果して事実であるか否やは断定することは出来ぬが、私の幼児、この寺の縁側に立つと、其処から東は河内平野に至るまで人家はなく、小橋の墓地が手近に雑草離々たる荒涼の姿を見せていた。大阪を脱せんとした大塩父子が、しばし機を窺ひつヽ姿を隠すには絶好の場所であるから、その噂は、当時の住職の作話ではあるまいとも考えられる。

 かうした思ひ出を持ち乍ら、私は中斎先生に就て知る処が極めて浅薄であった。大正十年の春、大塩平八郎と題する戯作を新聞に連載したことがある。この時中斎先生の史実を知るがために、当時大塩研究の第一人者として知られていた石崎東国翁を屡々訪問してその教へを乞ふた。同時に又その一生を殆ど中斎先生の史実の研究に没頭しつヽある岡田播陽翁とも相知るに到った。が私は当時、両翁の激賞するほど中斎先生その人の偉大性を心から信じることが出来なかったのである。

 処が、其後、中斎先生の遺書を読むに及んで、私の中斎先生に対する考へは一変した。中斎先生が洗心洞学塾を澱江畔に営みて、当時我邦の学会を睥睨し、子弟を薫育しつヽあった其事実は、真に大阪の誇りであり、我等後輩の誇であることを痛感するに至った。想ふにう石崎東国翁は常陸の人、岡田播陽翁は播磨の人である。而かもその一生を中斎先生の研究に捧げ、十年一日の如く渝ることなきに、私は苟くも大阪に生まれ、幼時より中斎先生の名を知り乍ら、その人の真価を知り得なかった浅薄を自から嘲らざるを得なかった。

 中斎先生の思想の片鱗に就ては、巻頭に附した拙文中斎と勤王思想の内に説いて置いた如く、その思想は日本精神の神髄である。この箚記は実に古聖の言を藉りて忠孝の道を昂揚し、人間としての修養の必須を説いた千古の名言である。一昨年これが註解の筆を起してより、殆ど一年有半、漸やく一先づ稿を了るも、浅学の私である。古聖格言の府倉たるこの箚記解註の難は筆舌の尽すところに非ず、況んや私は、年少より中年にかけて、英仏独の語学の研究に時間の大半を奪われ、欧米文学の乱読に没頭し、猶ほ夙に籍を操觚界に有したる関係上、政治、経済及び其他科学の書を繙くに忙しく、漢学の如きは多少詩文を好むが為に、時折、諸家の詩文集を見るに過ぎず、四史五経を始めとし支那の古典に至っては年少時代の素読のまヽにして、殆ど忘了、初学と異ならず。たとへば孔子或は孟子曰くとある一句さえ、論孟の内にあることは知り乍らも、何章何扁にあるや、全巻を通読して始めて求め得るが如きは、自から不学の致す処とは言へども、参考書に欠く困難は世の学徒の思ひも寄らざる処であろう。而かも、更らに困難なりしは人名である、引用せる人名の多くは本名に非ず、支那人名辞書を引くにも無益の労力を費やさざるを得なかった。而かも如何にして知ることの出来ない人名が二三あったが巳むを得ず、そのまヽに放棄した。猶王陽明とか、孔子とか、諸葛孔明とか、あまりに有名な人達のことは註を附せずに於いた。他に良書が沢山あるから就いて読まれた方が好いからである。猶更らに私は晩年不遇の境にあり、久しき窮乏生活にあって、一巻の蔵書無く、この底本たる塾版箚記さへ、図書館の蔵書を借りて筆写せざるを得ざる有様であるが故に、参考の書は勿論悉く図書館に通ひて閲覧を乞ふの煩を忍ぶも、大阪府立図書館にはこの種の書籍極めて少なく、幾度か中途にして放棄せんとしたが、箚記の文章が無限の魅力と、気魄を以て私の駑骨を鞭打ち、この煩労を忍ぶも、一方に於ては、このために生活の途を断たれ、窮状日に烈しく僅かに糊口のために売文のことに関係するも、多くは不信者の犠牲となりて更らに窮を倍するの結果を見るに過ぎず。而かも不幸相つヾき、苦心惨憺漸やくにして生活を支持するも、多少の債務を如何ともすること能はず。僅かなるこの債務のために血涙を呑んで侮蔑嘲笑を忍ばざるを得ずして、幾度か原稿の継続を中断するの不快を味ふなど執筆心のまヽならず。この間の消息は一生忘る能はざる憂鬱な思い出であらろう。時折感づるまヽに口ずさみたる七絶を左に数首掲載しよう。

 参考書無き私は時折註解の方法に悩み、巳むを得ずして藤沢黄坡翁に書を呈し、不審を正した事が数回あった。想ふに二十年前、黄坡翁の令兄、藤沢黄鵠翁とは故福本元之助翁の紹介により相知るを得て、屡々訪問したことがあるが、黄坡翁とは今回初めて只一馨咳に接したまでヽある。一面の識に過ぎない私に、多忙の時間を割きて示教を吝しまれなかったことを感謝する。私の解註にして誤謬の点あらばこれは私が質疑をなさなかった独断の箇所のみであらう。

 而して猶幾多の不審の箇所もあり、参考書の手に入らざりしがために、註を放棄した処も数カ所あったが、しかし大抵枝葉末節の箇所に過ぎず、本文に関係無きがために、目を閉むって置くことヽした。

 曲りなりにも稿は漸やくなった。成ったのではない強いて完結としたのである。自己の意見も加へたいとも思っていた。もっと詳しい解説の必要も感じていた。が、意外に紙数が多く、これ以上の紙数は出版の不可能を私に示唆している。で、出来るだけ簡略しなければならない。それ故、。私は曲りなりにも完結させたのである。処が、こヽにはからずも、洗心洞箚記解註の著書が既に他にあることを耳にして私は愕然として自己の寡聞を恥ぢた。私がこの著に手を染めたのは、私の知人の中に中斎先生の偉犲を知り、その著を読まんとして努力するも何分にも難書なるがために註無くしては、その真意を解する能はず、後学のために註解を慫慂され、不遜にも、その任に非ざるを知り乍ら筆をとったのであるが、他に良書あらば商人に非ざる私は、この著を世に出す必要はないのである。一年有半の労苦は私の寡聞の罪と諦らめて潔よく火中する決意をしたが、さすがに難肋捨つるに忍びざる情があり、その著と比して、私の著に異なる処あらば、火中する必要もあるまじと、知人に乞ふて、その著を一覧した。而して一読の結果私は不幸か幸か、私の著を火中するの必要なきを悟ったのである。扨てこの苦労とこの不満とを、誰れかに訴へて、私の口より言うよりもその人の口を藉りて同好の感慨を求めたく思った。  私は今まで著書中には知名の士の題序を求めたことはある。が、こうしたことは或る一方から見れば虚偽である折角労苦の結果、漸やくにして脱するを得たこの稿には、さうした虚偽は排したい。

 扨て序を求めるとなれば、交友の少ない私は、私を知った同好の士は絶無である。生前昵懇であった、石崎東国翁は既に先年故人となった。私は思案の末、先輩斉藤弔花翁に私の境遇を報じて序を求めた。懐古すれば二十年前、私が大塩伝の大衆化に筆を染めたのは弔花翁の慫慂によったものである。而かも同じく大阪の生れであり。三十年来の相識であり。更に亦、同じく文芸の業を以て満足する能はず、常に慷慨不平を絶たぬ不遇の人であることも又相似たり。只天分の分るヽ所は、文章に於いて、翁は明治以降の大家であり、私は名もなき悪筆であり、猶未だ翁の文章には愛誦禁ずる能はざる敬仰を抱ひていることである。これを以て真に私の良心を欺かざる序を得るには翁の他にその人なきを感じたからであった。果して私の想像は誤らず、弔花翁より左の如き返書に接した。

 私はこの手翰に接して全く知己の感を深くした。庭前の桜花は既に盛りを過ぎ、片々たる落花は輕雨に誘はれ、禄苔に斑点を染めている。私は亦愁然として筆をとった

  落花燈影伴牢愁  庸骨菲才涙自流
  多謝先生知己訓  只期死闘欲無休
 の七絶を得た。

 序は弔花翁の感激の一文を得た。更らに求むべきは跋である。私はこれを目下大塩先生の研究者として数十年一日の如くその労を惜しまぬ岡田播陽翁に乞ふことヽした。

播陽翁と相知るに至ったのは二十年前私が大塩平八郎なる戯作を新聞に連載した当時に始まる。爾來屡々会し、屡々中斎先生に関する新しく発見された史実を知るを得たが、私は多年、実は何がために播陽翁がその七十年の短からざる一生を大塩研究に捧げるのか、その真意を掬むに苦しんでいた。処が一昨年の夏、翁と共に大塩邸のありし辺りを散策し、更に澱江畔の遊園地のベンチに腰を下ろした。蒼茫たる暮色は凉を呼んで、江水を亘る晩風は習々として塵面を吹く。此時翁はその理由を私に話した。翁の幼年の漢学の師は岡田半耕と称し、中斎先生の門人で、洗心洞学塾に久しく起居していた。その師が将に老病による臨終の際、播陽翁及び翁の令兄、それと今一人同郷の池田某の三名の門人を枕頭に招き、中斎先生の平常の生活を語り、不幸にして中斎先生は幕吏及び不信の徒のために醜詆さるヽも先生は真に高潔無比であって、人格上些の非点がなかった。そのことを證し、当時幕吏の醜状を剔抉せんとして嘗ては身を賎夫に変じ、兵庫の御用商人北風荘右衞門方の下男に住み込むなど苦辛惨憺多少の資材を得たが、不幸時は非にして自分の言は多くは功を奏せず、こヽに此一生を終るも、汝等この師の志を体して中斎先生の寃を雪ぐのことに努めよと言って死んだ。その後池田某は中斎先生の生存を信じ、薩摩に趣き、その史実を探ると共に更らに支那に渡ったが、その後消息を絶つに至った。翁の令兄は物故し、翁一人、爾來五十余年一日の如く、家業の傍ら大塩研究の一念を廃せず、今猶ほ、その志に燃えつヽある事を知ったのである。私はこの話を聞いて感慨これを久しくした。中斎先生の子弟に及ぼす感化は遂にこヽに到れるか。私は翁と接して以来二十余年、始めての感激を胸に抱き、夜更けて袂を別った。後、家に帰って机に対するも、そのことのみ念頭を去らぬ。筆をとって

  播翁頻索中斎書  不識経年二十余
  今夕初知師志殉  顧翁老悴白鬆疎
の一絶を贈ったことがある。今、この書をなすに当たって私は翁の跋を求めんとして書を送った。処が時恰かも播陽翁は愛嬢の遺稿を纏めるに忙しく、而かも近来健康のすぐれざるにや、印刷の期の切迫するが故に私の催促に対して左の如き手翰に接した。

 との親書に接したが、不幸にしてこの書の印刷終了の期に間に合わず、若し洗心洞箚記付録を発兌する時あらばその時に翁の一文を冠することヽした。

 襄に本書を出版せんとし、書肆に諮りて顧られず。知人に求めて拒絶され、たまたま旧知の人印刷所主三田村氏の侠義によって印刷に附することになったが、遷延又遷延、数ケ月を経て猶形を成すに到らず、巳むを得ず荊妻が多少印刷に経験あるを以て文撰のことに従ふも難文字多くしてこれを求るに手間どり、而も植字の如きもこの文の困難なるが為か、屡々出入ありてこれ又停滞の巳むを得ざるにいたり、この方面も又荊妻の手を藉りて漸やく遅々として進捗を見ると言う有様であった。而も校正の困難は原稿に倍し。最初の印刷にあたり。他の印刷物との関係上、校正を再校にとヾめ、数十頁を印刷して、而して後に三度、これを見るに誤植少なからず、我は我が目を疑ひて茫然たるにいたる。想ふに操觚界にありたる時、校正の厳正を以て自から許していたことがある。然るに今この誤植を見て我歳老ひたりとの感深きと共に、筆者自身の校正は却って誤字を見落し易きことを痛感した。で、それ以後一層の注意を払ひ、万誤植無きを期し、先の誤植は巳むを得ずあとから訂正することヽした。が、校正の苦労は全く予期せざる苛重の負担であった。猶ほ校正に際して、註すべきを註せず、註の必要なきものに註していることを、多く気付く処があったが、文撰植字の労苦を思ふて、これが訂正を断念した。况して、自家の意見を加ふるが如きは、不幸にして私にはその時間の余裕と資力に欠くがために、これも又断念しなければならなくなった。が、想ふにこの書を繙いてこの訓読でも読み得る読者に対し、卑見を永々と陳述することは却って迷惑であるかも知れぬとも考へた。万が一にも何かの機会で再版し得ることでもあれば、私はその機に於いてこの缺を償ない、地下の中斎先生の叱責を緩和し得ることも出来やうが、これは到底望むべからざることであろう。要するにこの書に於いて自己の無学を暴露したに過ぎぬとの慚愧に堪えざるも、又、この書に依って中斎先生の思想を理解し得る聡明の士無きにしも非ざるを思ひ、この労力の徒労ならざらんことを祈るのみである。

 最後に一言して置きたいことは、私は多年著述を職業として来たがために、多くの著書を世に出している。が、その書は悉く生活のためであって良心に恥じるものばかりである。で、多くは筆名に隠れていた。今回、この著の成るに及んで、杜撰の嘲を受くるは覚悟の前であるが。自から顧みて生来初めての良心的努力を積んだものであることだけは信じている。で、筆名を用ひるに忍びず。父母の名づけ給ひし本名にかえるの至当を感じて、本名を署することした。多年筆名によりて交誼を得た諸君に対し、一言謝辞にかゆることヽする。

  昭和十四年七月初旬
              河南 南野田の仮寓に於て
                     註 者 しるす


岡田播陽についての参考文献


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