Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.13
2001.8.26訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の切支丹検挙事件に関する文献」

吉 野 作 造 (1878−1933)

『書物展望 第1巻第2号』(書物展望社)1931.8 より転載


◇禁転載◇

 私はいま大塩平八郎の三大功績の一に算へらるる切支丹一党検挙の始末につき、多少の研究を試み遠からず之に関する小著述を公にせんと企てゝ居る。之に志した動機は、大坂東町奉行に保存してあつた筈の公文記録の伝写を早くから見てゐたからである。

 大塩平八郎は大坂東町奉行所属の与力である。文政十年正月偶々外の事件で捕へた不届者の一味が切支丹邪宗門の信徒なることを発見し、大に驚いて新に上長たる町奉行高井山城守の命を奉じ、四月から七月にかけて其党類を洩れなく京摂の間に捕へた。九月に入りて審理を了り、其記録を高井山城守の名で大坂城代松平伯耆守を経て江戸中央政府に差出し処分の指令を仰いだ。幕府ではいろいろ評議の結果、十二年十一月に下知をくだし、十二月初め之に基いて夫々の処分がついた。

 首謀者は大坂三郷町中引廻の上礫になつたのであり、礫ばかりが六人、其外之に連座して大小種々の処分を受けたもの六七十名に及ぶのだから、当時京摂の間に絶大のセンセイシヨンを捲き起したるべきは疑を容れない。所が切支丹だと云ふので事の顛末は先づ官に於て之を厳秘にし、又一方には見せしめの為に罪人を引廻したクセに刑場に蹤いて来て捨札などを書取つた者をばドシドシ検束したと云ふから、民間の好事家達も後難を怖れて色々の噂を聞いても之を聞き流しにしたものと見へる。さればにや事件其者が大変世間の物情を激動した割に、之に関して書き遺された記録と云ふものは公私両面に亙り以外に少い。あるものは流言蜚語、従つて此一件に関しては久しい間事の真相はさつぱり分らなかつたのである。講釈師などの話を聞くと、出たらめを極めて居ることは分るも、之を反駁する正確な材料に乏しいと云ふ有様であつた。其外の読みものでも、大塩の此件を説くものは概して講釈師と大同小異のものであつた。

 私の知る限りに於て右一件に関する当時の記録としてやゝ精細にわたるものは『浮世の有様』であらう。矢野太郎氏編「国史叢書」中に収められて居る(大正六年刊)。精細ではあるが、要するに風聞の筆録であるから誤伝も亦頗る多いのは致方がない。

 此一件に関する最も正確なる記述は、明治四十三年刊行の幸田成友氏著『大塩平八郎』に依つて始めて世に現れた。右は久しく世に出なかつた大坂東町奉行所の公文記録の写が図らずも同氏の手に入り、それの精緻なる研究の結果書き綴られたものだからである。同氏の説に依れば、其の写といふものは大塩の同役たりし内山彦次郎の手蔵せしものだと云ふ。

 斯くして其後に出る著述は該一件に関し大抵幸田氏の著に拠つて居るやうだ。最も忠実に之を踏襲したのは相馬御風氏 *1 の『大塩平八郎伝』であるが、石崎東国氏の『中斎大塩先生年譜』でも徳富先生の『近世日本国民史』でも、若干の程度に於て之に拠つて居ることは疑ない。

 幸田氏の所蔵本と多分同じものだらうと推測さるゝ写本を実は私も持つて居る。十年ばかり前私の友人が求めて私に預けてあつたのを此頃遂に私の所有に帰した。奥書に依ると之も大坂東町奉行内の一役人が書留めて置いたものらしい。物の性質上沢山の複本を作りにくい事情にあり、それに切支丹の名に怖れて手を着けなかつたらうとも思はれるから、記録の写として今日に残つて居るものは外には沢山あるまいと想はれる。

 六月の初め私は幸田氏を荻窪に訪ねて其の所蔵本を見せて頂いた。『邪宗門一件書留』と題し二冊に分綴してある。私の所蔵本と対照して見ると、幸田本の方が遥に完本だ。私のは(一)罪人を吟味して調ベあげた顛末を詳叙し幕府の裁断を求めた所謂伺書と(二)之に対する幕府の指令即ち下知書等を含むに過ぎないが、幸田本には其外(三)幕府の命に依て大坂方から上つた処分見込書とでも云ふべきものと(四)幕府が最後の裁断を下すに先ち右見込書に基き評定所に審議せしめた結果の答申書とが加つて居る。之になかなか有益なる記述がある。尤も事件の顛末を明にするものは右の中の(一)だ、之が一番大事な部分であるけれども、(四)なくしては幕府の対策の基本方針等が分らない。何れにしても此一件に関しては、私の所蔵本も流布の少い稀本として珍重に値すると思ふが、幸田博士蔵本は正に天下一品の珍籍として尊重すべきものだと考へる。

 原胤昭翁の手許にも此一件に関する記録の保存があると云ふ話を久しい間聞いて居る。旧幕府時代江戸町奉行附属の与力の間には例繰掛と云ふものがあつて、豊富なる裁判例を集めてはその研究暗誦に任じて居つたといふ。如何な新奇の事件が起つても直に之を裁断すべき根拠を過去の先例に求めて常に急に応ずるの、用意を整へておくと云ふわけなのなそうだ。その為に集めてあつた先例集の一部として本件の記録が今幸にも他の多くの書類と共に原家に保存されて居るのである。之も一度拝見して置かねばならぬと先般翁を神田に訪ねた。所謂先例集の何冊目かにあるのだが、それは単に首謀三婦人の捨札の写が書留められてあるに過ぎなかつた。私の差当りの目的には大して参考にならなかつたけれども、之を一々点検して見たなら、徳川時代の犯罪竝に所刑の種々相を詳にするを得て、別の意味に於て大に参考になるものだと思つた。


註 *1 相馬由也『大塩平八郎』のことか。


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