■バトル・オブ・ブリテン・Round 2

 大西洋での壮大な追いかけっこが3月に行われ、以後枢軸側の各種艦艇は各港で次なる作戦へ向けての入念な整備がおこなわれます。なお、この間に消耗した日本の空母艦載機は、本国からの増援などで補充も受け取り完全戦力を取り戻しています。

 「Dディ」、ドイツ側が設定した英本土上陸作戦『あしか(ゼー・レーヴェ)』の発動は、1943年6月5〜7日です。
 欧州大陸の英仏海峡近辺には、最初に上陸する20万の将兵と第二波の50万の兵団、それを支援する4000機の航空機、そして各地に集結した大艦隊があります。さらに、ジブラルタル防衛には、イタリア艦隊が入り側面を固めます。
 また、43年春以後、英本土へと物資を運ぶシーレーン獲得競争は、護衛ローテーションが一度崩されてしまった英海軍に対して、ジブラルタルが使用できるようになり、水上艦の支援が受けられ、膨大な作戦艦艇を数えるようになった灰色狼の群(常時70〜80隻程度)に、スコアを上げさせるだけになります。そして当然、アメリカ船籍の船は一隻も大西洋航路に乗ることはなく、英国商船隊は本国での回復も日に日に難しくなり徐々に壊滅しつつあります。
 なお、大きな損害を受けた英本国艦隊は、決戦以後損傷を回復しつつもスカパ・フローに閉じこもり、こちらも次の戦闘に備えています。
 RAFも物資の本土への移送の滞りが航空機の生産にモロに影響しており、もはやドイツ本土爆撃はもとより大陸爆撃どころではなく、再び戦闘機の生産に重点をおかねばならないようになりますが、それでもここまで劣勢に立たされれば、その回復は容易ではありません。それでも春の時点ではかろうじて制空権は維持されています。この状態は、英本土が燃料不足に陥らない限りは大丈夫です。

 5月に入ると英本土上陸作戦の前段階として、枢軸(ドイツ)側による本格的な航空撃滅戦が開始され、40年夏の戦いを凌駕する激しい戦闘が英国の空の上で行われます。
 そして、五月も半ばに入り、「第二次バトル・オブ・ブリテン」もたけなわな頃、日本艦隊が一路北大西洋目指して、ドイツ本土を全力出撃します。
 あまりにも大規模な艦隊の出撃ですので、当然英国もこれを察知しますが、春の記憶が新しくさすがの英本国艦隊もアクティブな反応を起こすことはなく、北海から北大西洋へと姿を消すまで防衛体制と艦隊の出撃体勢だけ整えて、その行動を監視するに留めます。ヘタに洋上に出れば、艦隊航空戦力のない現在の状態だと春の二の舞になるだけだからです。
 しかし、その数日後、北大西洋上で日本艦隊をロストしてしまい、英国側では艦隊を撃滅し一応の目的を果たし、整備も完了したので日本が本土に帰還したのではないかという観測すらも流れますが、大西洋上の護送船団にしばらく運行を停止する措置をだして、その行方の捜索に専念します。
 そして5月15日、英国中のRDFが欧州沿岸、ノルウェーにかつてないほど多数の光点を確認します。
 第二次「アドラー・ターク」の開始です。しかも今回は、予期せぬ方向からも多数の侵入機を許すことになります。その正体は、ドイツ本土を出撃し、大西洋に行方を眩ませた日本機動部隊の艦載機です。
 日本機動部隊は、戦艦13隻、大型空母9隻、軽空母6隻、常用艦載機約800機より構成される大艦隊で、その母艦の群から二波600機もの航空機を英本土の北西方向から放ち、背後から「バトル・オブ・ブリテン」に乱入してきたのです。
 しかも、目標はどう見てもスカパ・フロー。それまで、ドイツ空軍ではロクに手が出せなかった場所です。
 その上、欧州大陸から襲来する機体には、地中海を平定したイタリア空軍もドイツからの技術供与を見返りに多数参加しており、ドイツと共にRAFの防空力の限界を超えた飽和攻撃をしかけてきます。攻撃方法は、それまでの戦いで英国が何度かしかけた大規模爆撃、いわゆる「1000機爆撃」と言う形になります。しかも、連日波状的に攻撃が行われます。
 まさに、ゲーリング国家元帥の威信・・・と言うよりもドイツの命運を賭けた作戦と言えるでしょう。
 一方、日本艦隊からの攻撃を受けた英本国艦隊は、急遽待避と回避運動のための出撃準備を進めますが、それが完了するまでに進撃速度の速い日本艦載機は到着し、当方面を防空するRAFとの制空戦を始めます。しかし、あまりにも膨大な数が一度に押し掛けたので、現地空軍では到底抑えることが出来ず、逃げ出そうとしている英艦隊の頭上に、総数350機もの攻撃機が襲来、おのおの好き勝手な目標に、250kg爆弾の反跳爆撃と500kg爆弾の急降下爆撃を開始します。基地の防御力はそれなりに高いのですが、これだけの飽和攻撃を受けては、それも明確に機能する事はなく、高速で移動している目標もないし、艦艇も対空砲火も輪形陣を組んだ艦隊よりもまばらなので、容易に目標に達し次々に投弾、英艦隊のかなりの艦艇にしばらく出撃できないほどのダメージを与えます。
 この攻撃では、泊地攻撃と言うことで、日本海軍にしては珍しく魚雷を用いていないので、戦艦の撃沈こそ出来ませんでしたが、雷撃よりも命中率の高い反跳爆撃と500kg爆弾の急降下爆撃なので、補助艦艇での被害は続出、本国艦隊は事実上半身不随に追い込まれます。
 日本艦隊は、スカパ・フローは一撃で破壊できたと判断したのか、それ以後はさっさと次の目標、英北部のレーダーサイト、航空基地、港湾の攻撃を開始し、約3日間の波状攻撃で同方面にしばらくは復旧不能な大打撃を与えて、悠々ドイツ本土へと帰投していきます。
 なお、日本艦隊が敵艦撃沈に固執しなかったのは、今回の目的が英本国艦隊の無力化にあり、徹底した撃滅を重視していなかったからです。

 一方、ドーバーを挟んでの戦いは、数の上では地中海からの戦力の移動とイタリア空軍の本格参入もあり、完全に数の優位も確保した枢軸側の優位に展開し、ようやくゲーリング国家元帥はその面目を施すことができる成果をあげます。
 半月にわたる空での航空撃滅戦は、双方最後の生産力をたたき込んだ、1940年の戦いを遙かに上回る壮絶な殴り合いとなります。しかし、前回と違いRAFは、友邦からの側面援護を受け、自らもある程度遠距離進撃が出来る事などもあり、ルフト・ヴァッフェの前に膝を屈する直前まで追いつめられることになります。

 「第二次バトル・オブ・ブリテン」での一連の戦闘の結果、グランド・フリートは一時的に壊滅し、RAFも満身創痍となり、もはやドイツ人を阻むものはドーバーの海しかなくなり、後は双方『Dディ』を待つばかりとなります。
 この時の全世界の関心は、1943年6月6日(予想)の『ゼー・レーヴェ』作戦発動に集まっていました。
 しかし、RAFの劣勢とグランド・フリートの一時的な壊滅は、それまでのチャーチルの戦争指導に英国国民に大きな不安を持たせることになります。
 そして、それから1週間続いた第二次バトル・オブ・ブリテンでの完全な空での劣勢が致命傷となり、ついに徹底抗戦を主張するチャーチルは国民から内閣首班から降ろされる事態に発展します。
 その結果、チャーチルに代わってアトリーが首相に就任します。英国民としては、名誉と戦争を失う事よりも祖国と生活を失う事を恐れたのです。
 また、これ以前にインドを喪失していた事から、世界帝国からの転落した事はすでに受入れられていました。
 アトリーは首相に就任すると、さっそく中立国を通じて枢軸側に対する講和を打診します。これは、今なら「講和」が可能であり、これ以後は「降伏」の道を歩む事になる可能性が極めて高いと言う判断からの外交判断でした。

 今まさに、日独伊の艦隊が再びドイツ各港より全力出撃、ドーバー海峡の空を鍵十字をつけた航空機の群が覆い、ドイツからフランス沿岸に待機していた無数の上陸用船舶がエンジンのアイドリングを始めんとしていた枢軸国側としては、寝耳に水もいい所でしたが、既に十分戦争目的を達成し、一日も早い英国の屈服ないしは停戦を願っていた事から、戦争が終わるのならこれを拒む理由はありませんでした。
 そして、ドイツ総統アドルフ=ヒトラーは、いつもながらの調子のラジオ演説により英国との停戦と話し合いを受け入れることを宣言します。
 この結果、『ゼー・レーヴェ』発動直前の6月4日、英国と枢軸国の間で停戦が成立により永久に中止される事となり、本作戦は史上最大の未発動の作戦と呼ばれる事になります。

 第二次世界大戦の、あっけない幕切れでした。

 もっとも、地球の反対側にある日本政府が、英国の急な政策転換、ドイツの突然の変節を知る事が遅くなり、現地部隊の落ち着いた態度とは裏腹に大いに混乱する事になります。
 この結果、日本政府は有終の美を飾る事に失敗します。
 せめてもの慰めは、それが停戦の逸脱にならなかった事ですが、外交史に大きな汚点を残す事になります。

 その後の1944年春より、ベルリン郊外のポツダムで双方の代表が集まり、戦争状態の完全終了を前提とした講和会議が開催されます。
 また、この会議の仲介の一助を日本政府とドイツ政府の双方から依頼されたアメリカ合衆国も、ホスト兼オブザーバーとして会議に参加し、世界中からの失笑を買いつつも、金儲けだけから見れば戦争で何もしない事が一番利益に適っていた事を、再び全ての列強に思い知らせる事になります。

 講和会議は、実に欧州での講和会議らしく日米のいらだちの中ダラダラと続きますが、一旦停戦した以上、どの国ももはや戦争を継続する意志も金もない事から、会議を止めて再び銃を取るわけにもいかず、1年近く続いた会議の後、一応の結論が出される事になります。

 結果として、ねばり強い抗戦を行った英国が、講和会議においても同様にねばり強さを見せつけ、戦勝国である枢軸国側に対する屈服と言うよりも、ある程度対等に近い形の講和を結ぶ事に成功します。
 しかし、「腹水盆に返らず」の言葉通り、多数の植民地を「独立」と言う形で手放さざるをえなくなり、アジア・太平洋・インド洋・地中海の制海権も失った事から、これにより英国はもはや世界帝国などではなくなり、依然として保有する広大な植民地と海運力・海洋覇権を交渉材料として、しばらくは得意の金融・情報戦を用いつつも、枢軸国側との屈辱的な共存に甘んじるしかありませんでした。
 一方の勝者となった枢軸国側ですが、ドイツが欧州を中心とした一帯の勢力圏をほぼ完全に確立し、実質的な欧州帝国を作り上げその戦争目的を十分以上に達成します。同じく欧州のイタリアも、枢軸国側の最重要国の一つとしてドイツに便乗する形で地中海を中心に覇権を確立し、一応の満足を示します。
 また、ソ連と国境を接する地域の大半は、ソ連から奪われた領土の全てを回復、さらには領土を増加させ、同じく便乗する事になります。
 そして、なんだかよく分からないまま、自らの目的の赴くまま世界大戦を戦い抜いた東洋で唯一の大国である大日本帝国も、戦争目的である「大東亜共栄圏」の名の元アジア一帯の勢力圏を確立、その戦争目的を大筋において達成し、名実共に世界のスーパー・パワーとして浮上します。
 なお、アメリカは全枢軸国に対し、市場開放のかわりに財政援助を行う事を提案し、新たな世界における自らの位置をアピールする事で、会議においてそれなりの存在感を示しましたが、戦争当事者でない事から、戦争景気以上の果実を得ることはできず、結果はやや不満足なものとなります。

 そして戦争と講和会議の結果と枢軸同盟の失効により、世界はマハンの理論を具現化したような、欧州・アフリカ圏を支配するドイツ(+イタリア・ロシア)欧州帝国と、アジア・太平洋・インド洋を勢力圏とした日本帝国、南北アメリカにその勢力を持つ経済大国たるアメリカ合衆国の3つの勢力に分割され、以後それぞれ三者は対立と共存の時代へと突入していきます。
 ちなみにこの状態を、今時大戦の勝利者である枢軸同盟と新たな三つの大国からとって、「トライアングル・アクシズ」と呼びます。
 また当面の世界情勢は、アメリカ合衆国が1934年の太平洋戦争以後は日本と手打ちをしており、中東利権問題で日独の経済的対立が始まるので、純粋な資源的、経済的な問題から、新興覇権国家である枢軸同盟対旧植民地帝国諸国という構図から、太平洋vs欧州の対立へと徐々にシフトしていく事になります。
 特にそれは、1945年8月15日に正式に枢軸同盟解体が決定した事で明確になります。
 それを現すかのように、欧州連合の大西洋方面での覇権拡大に対抗して、戦争特需で経済の建て直しに成功しつつあったアメリカ合衆国の陸海軍が大規模な軍備建て直し計画を発表し、世界が新たな時代へと突入した事を世界中の人々に印象づけ、ついでドイツを中心とする欧州帝国に従属するかに見えた英国が、戦争の終結からしばらくして、ドイツが(経済的理由から)当面軍事的リアクションができないのを確認してから自らの勢力圏の再編成と、日米それぞれの勢力に対する接近を行った事から、再び混乱へ向けて坂道を転がっていく事になります。

 また、ドイツにおいては「ヴィルヘルム研究」、アメリカでは「マンハッタン計画」、日本でも「G号実験」と呼ばれる大規模な新兵器開発が開始され、ミニタリー・バランスを一変させるとされる新兵器の開発に狂奔するようになります。

 そして、八八艦隊の鋼鉄の戦乙女たちは、米国打倒後最大のライバルであった英国海軍を撃破して後も、欠員もなく無事乗り切ることになりました。
 八八艦隊は、名実ともに世界最強である事を世界に証明したのです。
 これを祝うかのように、戦勝を記念しての1944年秋の天覧大観艦式において、日本海軍に属する全ての戦艦――就役したばかりの新鋭戦艦「大和」級、装甲巡洋艦「剣」級から、「八八艦隊計画艦」の全艦はもちろん、退役を間近に控えた「金剛」級にいたるまでの合計20数隻の戦艦が舳先を連ねる事になりました。

 しかし戦後、米独がこの日本が有する膨大な数の戦艦に対抗するため、戦艦中心の艦隊計画を計画する中、当の日本海軍は戦争の間に明確に航空主兵へとシフト初めており、それを象徴するように、観艦式を最後に表面上戦後の軍縮を実現するという目的もあり、「金剛」級の退役を決め、「長門」級、「加賀」級の漸次予備役編入が決定し、「赤城」級全艦の装甲空母への改装、完成間際の第4次海軍補充計画艦以降の戦艦建造の中止、それと平行しての多数の大型空母建造と、極端なまでの海軍兵備の変革の道を進み始めます。
 もっともこれは、国力そのものが大きくなり、また勢力圏の増大により守るべき地域が大きくなった事から、戦艦中心の防守海軍を本格的に改め、よりバランスの取れた新時代の海軍を模索した結果に過ぎません。
 また、日本海軍には、今時戦争における空母の集中性と破壊力は、新たな主力の一翼として十分なものであり、また防空(制空)、対潜、護衛などありとあらゆる任務に柔軟に対応できる空母の多数整備は、手っ取り早い外洋海軍の建設の近道と写ったのです。
 そして日本帝国は、一時的な戦略的妥協を行ったアメリカとイギリスに代わり、インド洋での制海権獲得のための海軍整備計画を進め、さらには、最も異質の政治形態を選択し以前独裁政権下にあるドイツ率いる欧州帝国に対するため、英米と共に欧州包囲網を形成するべく、大規模な海軍の建設に狂奔する事になります。

 そしてこれは、新たな戦乱への序曲でもありました。

 では最後に、新たな戦乱が予想される1940年代終末期の列強海軍の主要艦艇を紹介して、このルートの終幕としたいと思います。

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