■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  110 「歴史が動く時」 

 1929年10月初旬、私がテキサスでの油田掘り当てで騒いでいた頃、アメリカのダウ・インデックスは微妙な、そして不気味な興奮に包まれていた。
 誰もが、上昇と下落を繰り返す株の値動きを追っていたからだ。

 1日に米国銀行協会年次総会で会長が「小口融資残高が増加しており、問題である」と示唆した。ちゃんと賢者は居るものだ。しかし、愚者とも言えない人も当然いる。
 これに対して5日、とある経済学の教授が「数ヶ月以内に株価は大きく上昇するだろう」と発言。
 後世の研究では、米国工業生産高は減少していたのだが、彼は実体経済に注意を払わなかったのではないかと分析されている。しかもその教授は、23日に「株価は永久的な高値の横這い状況になる」とバブソン教授に反駁した。
 そう、奈落の底へと至る、前日の事だ。

 そして私だが、10月半ばからモルガン、メロン、ロックフェラーなどの大財閥との話を何度も持つ事になった。
 向こうは私の『化けの皮』の下を知っているので、財閥や一族の中枢に近い代理人が、私が滞在する邸宅へと日に変えて訪れた。
 主な話は、表向きは私が得た膨大なドルを用いた、アメリカでの大きなお買い物についての相談だ。
 そしてその時の「雑談」として、ダウ・インデックスの話を必ずした。
 私が全降りした事が気になっているのだ。

 だがもう遅い。どこかで聞いたようなセリフだけど、それ以外頭に思い浮かばない。
 私一人がいようとも、鳳財閥が莫大な投資をしようとも、それは大海の一滴。20億ドルも900億ドルに迫る総額に比べれば、取るに足らない金額に過ぎなかった。
 その証拠に、私と私が教えたごく一部の人だけが知る通りに、ダウ・インデックスは値動きを続けていた。
 もうここまで来れば、奈落の底の否定も延長もないだろう。いや、これで何か違う事が起きたら逆に私が驚く。
 怖いという考えすら通り越えるトレース具合で、私の頭の一部にこびりついている変動グラフと同じ線を刻み続けていた。

 だから会った人には、可能な限り現状の株価の推移が危険だと言うメッセージをなんらかの方法で伝えた。
 自力で降りてもらわないといけないけど、全降りするもよし。暴落に備えて市場に資金注入する準備をするもよし。何か名案があるなら、それをしてくれても構わない。むしろ、もし手立てがあるならして欲しい。
 けど私は、心が油断すると大量に資金注入しかねないと自分を信頼していないので、時田に強く命じて当面は簡単に大金が動かせないようにさせている。
 そうしておかないと、破滅のダンスを私も踊りそうですごく怖い。

 その一方で、歴史の目撃者になると決めていたので、「暗黒の木曜日」がやってくる週になると、月曜日からウォール街通いを始めた。
 警備もあるので行く事は告げていたので、ウォール街で退屈する事はなかった。朝から夕方まで詰めたが、10時のお茶、お昼、3時のお茶と、大財閥の色々な部門の代表の人と席を共にした。
 今後の商取引の為にもしておいた方が良いからだ。そしてすべての席で、私は平静を装う仮面を被り続ける。
 私が知る「Xディ」は木曜だけど、数日の誤差くらいはあっても然るべきと思っていたからだ。
 だが何事もなく水曜日まで過ぎていった。

 そして木曜日の朝、いつも通りウォール街の中枢部、ニューヨーク証券取引所へとやって来た。

「周りは、私をどう見ているかな?」

「当然、そろそろ買いに戻ると見ているでしょう」

 私に付き従うセバスチャンが、さも当然とばかりに断言する。反対側にいる時田も肯定顔だ。そして時田が今まで売買してきたので、市場を多少は知っている人は謎の民族衣装のガキよりも時田を見ている。
 そして本当の事を知っている人は私を見る。ただ、そうして市場を見渡す限り、私を見る人はいない。
 いや、一人いた。
 目立つスーツ姿がこちらにやって来る。モルガン商会の私向けの代理人、交渉人のロバート・スミスだ。

「フェニックス・プリンセス、ご機嫌麗しく」

「全然ですけれどもね、ミスタ・スミス」

 大仰なゼスチャー付きの挨拶に、さも不機嫌に返しておく。
 私にとってのここは、すでに地獄のど真ん中だ。いつもなら令嬢の仮面をかぶるところだけど、今日は運命の日だと知っているせいで、神経がいつも以上にささくれ立っていた。
 自分に課した目的がなければ、現実逃避のために邸宅でゴロゴロしているところだ。いや、そもそもアメリカくんだりにまで来ていない。
 しかしモルガンのスミスさんは、そんな私の内心は知る由もない。
 「困ったなー」と言ったゼスチャーをとる。

「何かご不満でも。我々が全力で取り除かせて頂きますが?」

「有難う御座います。ですけれど、こればかりか誰にも取り除く事など出来ないと思いますわ」

「誰にも、ですか。それが今週ここに通われている理由ですかな?」

「株を持たない私が不安など、お笑い種でしょう?」

「いえ、ご懸念ごもっとも。我々も、今月に入ってからの予測として、今年前半程度での停滞は覚悟しております」

(ということは310ドル辺りか。向こう半年としても、もう50ドルは下に見てくれればなあ。と言っても、1ドル落ちれば2億ドルが消し飛ぶから、そんな悲観論が出るわけないか)

「ご不満のご様子ですね」

「不満など。心配性なだけですわ」

「あれだけの大勝負を仕掛け、そして大勝利を収めたあなたにそう言われてしまうと、我々も不安が高まりそうです。ですが、何があなたをそうまで不安にさせるのでしょう? 一端なりをご教授願えませんか。そうすれば、何か良い助言が出来るやもしれません」

 そう聞かれては何も答えないわけにもいかないので、私からのせめてものアドバイスを口にする。

「すぐに市場に投入できる資金を、少しでも多く集めるてはくれませんか。私どもは用途が決まったお金ばかりで迂闊に動かせないのが、大変心苦しいのですけれど」

「それでしたらご懸念不要です。我々も不測の事態に対して十分な備えはしております」

 なんだそんな事かという表情で、そして自信に満ちた表情と仕草で断言する。そう、彼らは金融のプロ中のプロだ。私のような素人以上に考え、用意している。
 しかしその用意は、10メートルの大津波に対して1メートルの堤防で十分と考えているに等しい。それを私は知っている。
 だが、プロが万全と言っている以上、もう笑顔を張り付かせてこう答えるしかない。

「そうですわよね。素人考えで申し訳ございません。けど、安心致しましたわ」

「なんの。プリンセスのご懸念を振り払うことが出来、大変光栄に思います」

 スミス氏がそう言い終えた瞬間だった。
 下の取引所の中枢部が騒がしくなり始めた。

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