■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  111 「暗黒の木曜日」 

(始まったんだ)

 私は護衛のマッチョマン2人を押しのけるように、見渡しのいい場所へと移動。そしてその光景を目撃した。

「っ!!」

 世界恐慌の詳しい事は殆ど知らなかったので、そこからの情報、光景は私にとっても鮮烈だった。
 時間は10時25分。それまで無敵の高値を誇っていたゼネラル・モータースの株が下落した。私が今年の前半に売り抜けた、あのGMの超優良株だ。
 しかし私が一心不乱に見続けたその後5分ほどの動きは、大した事はなかった。だからまだ始まっていないと勘違いした程だ。
 けど、ちゃんと撃鉄は降りていた。
 私が気を張りすぎていたのを自覚して少し離れた直後、午前11時を迎える10分ほど前から株式市場全体が売り一色へと傾く。
 それはまるで、巨大すぎるから爆発が遅れて発生したかのよう変化だった。

 私の側では、ミスタ・スミスが砂上の楼閣が崩れ落ちていく様を呆然と見つめていた。私はそれを、今アメリカ中の投資家の姿なのだと、半ば他人事のように見つめ続けた。
 1ドル下落すれば、2億ドルが消えて無くなる。そして今までと違い、戻る事はない。売り注文ばかりで、下がる一方だ。
 絶望の表情やゼスチャー、そして絶叫が、時間とともに増えていく。こちらも減る事はない。中には祈り声すら聞こえてくる。

 そうして30分もしただろうか、ようやくミスタ・スミスが魂の抜けたような表情で私を見た。そして私を私だと認識すると、表情が大きく変化する。それまでの役者じみた姿よりも余程人間的だ。

「プリンセス、これを一時的なものだとお考えですか?」

 今までと違い声がかすれて、自身も何もないむき出しな感じだ。そして私への憎悪もしくは畏怖を感じる。口にしつつ、その目は化け物でも見るものへと変化もしていった。

「一時的ならどれほど良いかと思ってはいます」

「大変失礼ながら、何かしら超常的な手段でお知りになられていた、という事は御座いませんよね」

 本当にお前は預言者か何かなのかと問いたげだ。
 そして、今まで一切信じてなかったからこその問いだった。

「それなら、もっと儲けています」

 きっぱりと断言し、そこで一拍子置く。
 ミスタ・スミスもそれで冷静さを多少は取り戻した。

「ミスタ・スミス、私は日本に住んでいたおかげで、常に外からここを眺める事が出来ました。立場のおかげで、色々な情報に触れる事も出来ました。調べてくれる優秀な人達もいました。答えてくれる賢者もいました。だからこそ勝つ事が出来たのと同時に、危険だと認識する事が出来たのです。
 さらに言わせていただければ、危険だとお知らせするべく他の方々にお伝えした事もありました。直接、私が危惧を伝えた事も一度や二度ではありません。ですが皆笑うばかりで誰も聞いてくれないので、道化の気分とはこういうものかと妙に納得したものです」

 私の言葉は、万が一に備えて既成事実を作っておいた結果であると同時に、本当に私の前世通り動くか不安で仕方なかったので、可能な限り手を尽くした結果でもあった。
 それに対して、ミスタ・スミスの声は呟くようだ。

「……確かに、そう、その通りです。いや、でした。鳳のシンクタンクからの資料も、モルガン商会に届いていました。そして誰もが、東洋人のチビどもは臆病で馬鹿だと笑っていました。だが、プリンセス、あなたが正しい。いや、正しかった。
 あなたが正しいと認めた上でお聞きします。ここから巻き返す事は可能とお考えですか。もしあるなら、どのような手があるとお考えでしょうか?」

 話しながら少し自信、いや自身を取り戻したミスタ・スミスが、目に力を戻して私を見つめる。
 しかし私に言える事はもうない。

(1年前なら、もう少しマシだったんだろうけどなあ)

「ない、のですか」

 表情が表に出たのだろう。ミスタ・スミスの表情が落胆へと変化していく。けど、ショック療法として、多少なりとも事態を認識させるより他ないと腹を括る。

「100億ドルでも用意できれば話は別でしょうが、アメリカで流通している実際の通貨量がその半分もありません。それでも余程の事をしないと、その場か凌ぎの対処療法にしかならないでしょう。ダムは決壊したのです。しかも、実態のないドルという水を限界まで溜め込んだ世界最大のダムが」

「……確かにその通りです。それで、その場しのぎとして、徒党を組んでの大量の資金投入をしたとして、この場は収められるとお考えですか?」

 私がちょっと前にした話を思い出した言葉だ。
 だから私は首を縦に振る。

「対処療法にしかならないでしょうが、それくらいしか手立てはないと思います。ですが、この惨状を見る限りすぐに集められる金額程度で、どこまで押しとどめられるか……」

「それでも動かないわけにはいきません。恐らく、既に多くの者が動いている筈です。私も、可能な限り大金を用意するように働きかけます。それでは、大変失礼ではありますが」

「私に構わず、どうぞ行ってください。あっ、買い支えを共同でなされるのなら、必ずお声をかけてくださいまし。私はこの数年間楽しませて頂きました。多少なりとも、恩返しをしたく思います」

「そのお言葉、上の者に確かにお伝え致します。また、必ずご連絡を。それでは」

 そう言って演技もなく、一礼もなく、ミスタ・スミスが立ち去った。
 残されたのは私達だけ。一応他から隔離された場所だが、外は喧騒しかなく、歴史の教科書で見たような情景がウォール街全体に広がっているとしたら、ここから帰るのも一苦労するだろう。

「八神さん、ワンさん、人が少なくなる時を見計らってどこか近くのホテルへ移動します。時田」

 「ハッ」と声とともに頭を下げ、ワンさんがすぐに動き出す横で、時田が厳しい目を私に向ける。

「玲子お嬢様、お言いつけ通り、今フェニックス・ファンドが動かせるドルは御座いません」

「けど、時田の事だから、少しくらいあるんでしょ?」

 そう返して少しオネダリするような視線を向けると、本気の苦笑が返ってくる。それでこそ時田だ。

「100万ドルでしたら。それ以上はいけません。それに十分な額かと」

(たった100万ドルか。時田ならもう一桁上を用意していると思ったけど、それだけ私が危うく見えてたんでしょうね)

 多分そんな内心が表情に出ていたのだろう、時田がさらに何か口にしようとした所で、それまで無言だったセバスチャンが半歩前に出る。
 そして何かを紙切れを差し出す。
 100万ドルと書かれた小切手だ。

「1000万ドルとは参りませんが、もう100万ドルでしたらここに」

「誰のお金?」

「お嬢様にお仕えすると決めた以上、必要ないので会社などを処分したものです。如何様にもお使い下さい」

「それはダメ」

「私はお嬢様の後追いで、この数年間非常に楽しませて頂きました。その代金とお考え下されば、それに勝るものは御座いません」

 そう言ってさらに小切手を前に突き出し、しばしセバスチャンと睨み合う。多分だけど、セバスチャンはこういうチャンスを待っていたのだろう。睨み合いつつも、口元には小さく笑みが浮かんでいる。
 これは折れるより他ない。それに内心凄く嬉しい私がいた。

「じゃあ、少しの間借りるわ。タップリ利子をつけて返すから、忘れないでね」

 その答えに言葉はなく、恭しく頭を下げるのみだ。

 そう、セバスチャンは利子など求めてはいない。欲しいのは、私個人の信頼を得る事。そうであれば大成功だ。
 そこまで私に心酔する理由は分からないけど、公私ともに私と鳳はセバスチャンに恩を売られた。いや、恩を受けた。明日にでも行われるオールアメリカンの株式市場の買い支えに、私は100万ドルではなく200万ドルを用意できる。
 額が大きければ良いというものではないけど、アメリカの中枢部に売れる恩はその分大きくなる。だが、仮に時田が1000万ドル用意していたら額が大きすぎたのだろう。
 何しろ私達は、アメリカの中枢部から見れば、ただの大儲けした博徒だ。沢山お買い物するから見逃してと言ってあるけど、大きな顔をしてはいけない。他に参加する人たちの面子を潰してしまいかねないからだ。
 それに恩を売りすぎてもいけない。何事もほどほどが一番だ。

 そしてセバスチャンは、アメリカ人としての感覚から金額を弾き出していたのだろう。時田は100万で必要十分だと考えたが、その倍くらいがちょうど良い塩梅とセバスチャンは見たのだ。
 そもそもセバスチャンの全財産が100万ドルきっかりというのは、話が出来すぎている。
 暗に俺に任せろと言っているのかもしれない。
 しかし私の考えは別だ。

「時田、あなたを私の執事職から実質的に外すわ。その代わりフェニックス・ファンドの社長職は当面そのままで、鳳商事の最低でも副社長になって今後の事業拡大の中心に座って。後任としてセバスチャンを私の執事か秘書に据えて、あなたを補佐させるから。あとセバスチャン、あなたの部下も来たい人は全員迎え入れるわ。いいわね?」

「は、はいッ!」

「仰せのままに」

 セバスチャンが一瞬喜色を爆発させる横で、時田はいつものように冷静な姿のまま佇む。玄二叔父さんの座っている椅子を奪って座らせると言ったのに、表情は涼しいものだ。
 そして既に答えを知っている表情で聞いてくる。

「アメリカは?」

「アメリカでの金と買い物はしばらく延期。交渉は、日本にいても向こうから来てくれるわ。こっちは必要なものを、必要な時に買い叩けば良いから、まずはこの大騒動の波及の阻止ね。じゃあ皆んな戻るわよ。この場所に、もう用はないわ」

「畏まりました」

 時田の言葉と同時に、私の周りの全員が頭をそれぞれの角度で下げる。

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大恐慌発生直後の買い支え参加:
作中では200万ドルを、外野の有色人種にとっての適正価格としたが、分かりやすく表現する為の揶揄的なものと思ってください。
なお、平成円との価値で3000倍の差と仮定すると120億円くらいの価値。
即金としてなら、少なくとも端金ではないだろう。

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