■「悪役令嬢の十五年戦争」
■ 183 「水稲農林1号」
「コシヒカリ! キタ〜ッ!!」
「はい? また夢で何か見ましたか?」
「夢じゃないわ。現実になったのよ!」
「何がでございましょうか?」
「だから、コシヒカリよ、コ・シ・ヒ・カ・リ!」
「……腰が光るのでしょうか?」
シズとの会話がさっぱり噛み合わない。けど、待ちに待っていた報告に、私は少し興奮していた。それに久しぶりの明るい話題に、必要以上に心が躍る。ただ、コミュニケーションは大切だ。 一度深呼吸してから会話を再開する。シズも律儀に待ってくれている。
「コシヒカリのご先祖様になる稲の品種が生まれたのよ。その名も水稲農林1号!」
「ご先祖様の方は、随分と味気ない名前ですね」
「まあお役所命名だからね。けど、こいつは凄いわよ」
「沢山実ったりするのでしょうか?」 「そうよ。しかも寒さに強い寒冷地用の水稲で、成長が早くて、花が開いてから実の成るまでの期間が短くて、しかも美味しいの! 最高でしょう!」
「本当ですね。ただ、良いとこ取り過ぎるように思えます」
「ホントそうよね。けど事実なのよ。さあ、どんどんこれを広めるわよ。連絡して!」
「はい、畏まりました」
そしていつもの、音のしない静かな一礼。 シズとの会話は多くなったけど、このやり取りは変わらない。
シズに命じてしばらく待つと、時田が鳳ビルからやってきた。珍しく、善吉大叔父さんまで一緒だ。
「お待たせしました、玲子お嬢様」
「お久しぶり、玲子ちゃん。朗報だって?」
「はい。新潟の農業試験場で、新種の稲の農林1号が生まれたのよ。資料はそっちを見てね。すぐに普及するように、手配したいの」
「以前からおっしゃっていた稲ですな。しかし、開発に資金を入れなかったのは何故なのでしょうか?」
時田がごもっともな質問。 この稲の開発は27年から行われていた。27年には知らなかったけど、28年には私も情報を掴んでいた。けど、しない理由があった。
「真面目な宮仕えの人に、賄賂積み上げるのは流石に駄目でしょう。相手が民間なら容赦しなかったんだけどね。けど、ここからは別よ」
「普及への資金援助ですかな? それともさらなる品種改良の方でしょうかな?」
「まずは普及。東北と北陸、それに出来るなら北関東、長野の辺りも。とにかく寒いところよ。32年に全部は無理だろうけど、34年の田植えまでに広められる限り広めてちょうだい。今後の日本の食料問題にも関わるから、総力を挙げてね」
「そこまでするのかい? 確かにこの資料が確かなら、素晴らしい品種だとは思うけど」
善吉大叔父さんがごもっともな質問。 しかし私は知っている。私の前世の歴史では、戦時中と敗戦後の食糧難の時代も乗り越えさせてくれた、救世主とは言い過ぎながら、食糧生産にとても貢献してくれた品種だ。 そして戦後、コシヒカリやササニシキなど、数多くの美味しいお米へと繋がっていく品種でもある。 そんな説明は流石にしないけど、絶対に普及させないといけないお米だ。しかも可能な限り早急に。
「方法はどのように? 政府への働きかけと献金が常套手段になりますが」
「それはしないと始まらないわよね。けど、分かっている人は官僚にも政府にも十分にいる筈だから、話は通りやすいと思うの」
「通らない場合はどうされますか?」
「うーん……三菱様にご連絡して。先に加藤高明様にご相談してみましょう」
「その方が通りはよろしいかと」
「私もそれに賛成だ。それでだけど、三菱と加藤様には私が話を通しておこう。それで、他に伝えることはないかい?」
善吉大叔父さんが、やたらと乗り気だ。 そんな大叔父さんに、考え事をする振りを混ぜつつ少し半目で見つめてみるけど、軽く首を傾げられただけだ。
(これって、私が呼んだ理由、絶対知っていたわよね。ファンドからお金が出るかだけ、直接確かめたかったって事かな? ……ま、いいか)
「うん。詳しい人間も連れてくれたら、それで十分。餅は餅屋。私の言葉よりも専門家に話させて。出来るだけ普及に熱心そうな人を」
「委細承知だ。でも、この稲を何年も前から目をつけていたんだから、今更ながら驚かされるね」
「私は、先に見つけるくらいしか能がないからね。じゃあ善吉大叔父様、よろしくお願いします」
「うん。任せてくれ。今回の件は、是非早急に進めたい。何しろ私の出身は山形だからね。それとね、去年の豊作飢饉対策もそうだけど、一連の行動と計画には私個人として、玲子ちゃんには感謝しきれないんだよ。遅れたけど、本当にありがとう」
そう言って、かなり薄くなっている頭を下げた。 その寂しい頭を見つつ思い出す。
(そう言えばそうだった。経歴なんて、すっかり忘れてたなあ。けど、だから今日わざわざ私に顔を見せに来たのか)
「頭を上げて下さい。それに私の『夢』が正しかったら、これからの方が大変な事になるの。特に今年は東北・北海道はすごい不作だから、去年以上に気を引き締めていきましょう」
「うん、そうだね。本当にそうだ。頼りにしているよ。それじゃあ」
そう言って、時田を置いて出て行った。 そして時田が残ったということは、だ。
「時田は別件あり?」
軽く首を傾けて聞くと、軽く頭を下げる。
「はい。同様の件も含めて、原敬様よりご連絡が御座いました」
「あー、盛岡だっけ、あの人」
「はい、盛岡のご出身で御座いますな」
「東北、特に岩手は大変な事になるから、お金突っ込む予定だったしなあ。含めない方は、その件?」
「左様に御座います」
そこで私をジッと見つめてくる。 それで何を言いたいか少し分かった。けど言葉にする前に、言いたい。私はまだ料亭に行く年じゃない。だから、確かめないわけにはいかなかった。
「えーっと、料亭に呼ばれたり、しないわよね」
「まさかまさか。玲子お嬢様には、ご報告だけに御座います」
よかった。いつも通りの胸の前で両手を軽く横に振る否定のゼスチャーだ。ただ、それを見つつ疑問も出てくる。
「てことは、お父様と会合するのね。まだ一応軍人なのに、原さん的にいいのかな?」
「ご当主様は、既に予備役願いを出しておいでですから、その話もあちらには伝わっているかと」
「なるほどね。で、何か私にもご伝言あり?」
「はい。色々と骨を折ってもらって、鳳の御姫様(おひいさま)に是非宜しく伝えて欲しい、との言伝を頂いております」
「ホッ。よかったそれだけで」
「それと、もう一つ」
一息ついたのもつかの間、時田から追加のオーダーが入った。絶対わざとの間の空け方だ。 ジト目で見返すと、目が笑っている。悪い話ではないけど、いたずらに成功したって目だ。
「料亭は無理だろうが一度鳳のホテルに行きたいので、玲子お嬢様がよくおっしゃる『すい〜つ』をご馳走してくれないか、との事でした」
「それ、絶対に献金してくれって話よね」
半目のまま断言して言い返す。 原敬から彼の郷里に落とす献金の話を無くしたら、原敬ではなくなるほどだ。 そして時田もそれを肯定する。
「恐らくは。原敬が甘いもの好きとは、聞いた事が御座いませんな」
「山吹色のお菓子は、大好きみたいだけどね」
「ご自分で食されないのですから、構わないのでは?」
「そうね。それに東北に金を落とすなら、原様を通す方が楽だものね。セッティングしておいて」
「畏まりました」
時田の深い一礼が、会話の終了となった。
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水稲農林1号 (すいとうのうりんいちごう) 後にコシヒカリなどの品種の交配親に用いられ、多数のイネ品種の祖先となっている。 1931年4月に参考成績書が出されたが、詳細はリサーチできず。 また、1月ほど早く察知したと想定。