■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  229 「十月事件は?」 

 10月ももうすぐ下旬、満州で騒動が始まってから約一ヶ月が経過していた。
 満州での状況は、順調と言えるレベルで進んでいる。

「クーデター?」

「はい。兆候などありませんか?」

「そうか、もうそんな時期か」

 まるで季節の会話でもするかのようだ。
 答えるお兄様な龍也叔父様は、全然緊張感がない。油断するような人じゃないから、少なくともお兄様のアンテナには引っかかっていないという事だ。
 そして一瞬上を見たお兄様は、私に視線を向けるとニコリと笑顔。三十路に入っても相変わらずのイケメンなので、油断するとこっちの心が蕩けそうになる。

「玲子の夢に出てきたクーデター未遂だね」

「はい。ないんですね」

「ああ。兆候すらない。桜会の方は、会に属している辻から定期的に連絡も受けているけど、何もなさすぎて辻に悪いくらいだ」

(辻ーんかあ。お兄様に嘘は言わないと思うけど、よりにもよって辻かあ)

 聞いた名前に少し暗くなりそうになったけど、お兄様は私の内心の変化には気づかず言葉を続ける。

「ただ桜会は、前も説明したけど主に東京にいる陸軍将校だけで、100名近く所属している大所帯だ。一部は民間の運動家などにも繋がっている。だから色々な考えの人達がいる。しかも、主に破壊派・建設派・中間派の三派に別れて、論争してばかりだ。まとまりがないから、剣呑な事を少人数で話し合う程度の者はいるだろう」

「けど、満州での動きに政府がそれなりに積極的だから、自分達から事を荒立てる程じゃないって感じでしょうか?」

「そんなところだね。それに3月の時と似た感じだ。誰もがクーデターが失敗した時に、自分達がどうなるのかを気にしている。
 それに一昨年の陛下と海軍の一件が、まだみんなの心にタガをはめている。それにあの一件で、陛下は君側の奸などに御心を惑わされないと言う事も示された。
 彼らにとっては、取り敢えずではあるが動く時じゃないと言う辺りだろう」

「取り敢えず、なんだ」

「ああ。何しろ若槻内閣は、動く事を是としたのに積極的な拡大には、やはり消極的だ」

「ん? お兄様もご不満なの?」

 ちょっと意外な気がするので思わず聞いてしまったけど、真顔で頷き返された。

「事の是非については横に置くけど、一度動くと決めた以上、一貫していないのも中途半端も良くない。何しろ軍事は外交の延長だ。諸外国も見ている」

「確かにそうですね。私でももう少し積極的でもって思っていました」

 そこでお兄様の苦笑が漏れた。

「軍人じゃない玲子が見てそう思うのなら、血の気の多い連中はさぞ歯がゆいだろうな」

「だから取り敢えずなんですね」

「うん。それと」

「まだあるんですか?」

 思わず声が1オクターブ高くなる。頭の固い軍人は、不満ばかり溜め込むのはやめてほしい。正直聞きたくないくらいだけど、こう言う時のお兄様は遠慮も容赦もない。

「若槻内閣は緊縮財政だ」

「ハァ。1年緊縮財政されたくらいで不満溜めるとか、どんだけ怒りの沸点低いのよ。バッカじゃないの」

 予想はしていたし、別の方面からも同じ話は届いていた。
 けど、こうして耳にすると本当にそう思ってしまう。そして相手がお兄様なので、どうしても心が油断する。
 そしてお兄様は、私の予想どおり、いや望んだ通り優しい苦笑で受け止めてくれる。
 お兄様、マジお兄様だ。しかも年をとって、さらに優しくなった気がする。

「そう言ってやるな。それに俺もその馬鹿の仲間だぞ」

「お兄様は違います」

 私の断言に、また笑ってくれる。けどすぐに顔が引き締まる。

「ありがとう。でもね、彼らにとっては1年ですら看過できないんだよ。世界的な未曾有の不景気、不安定な大陸情勢、そして年々国力を増しているソビエト連邦と、問題山積みだ」

「今すぐ戦争が起きる可能性なんて本来ないんですし、前線の兵士じゃないんですから、もっと広い視野、遠くを見据える見識を持てないんでしょうか。お兄様のように、1年じゃなくて5年10年先が見えていれば、違った考えも持てるのに」

「俺も親しい者、近くの者にはよく言っているんだけどね。広い見識、遠くを見据える視野を持てとは。でも、口で言うほど簡単じゃないし、誰もが玲子のように遠くが見えているわけじゃない」

(ああ、このままだと説得を兼ねた慰めのループになりそう。お兄様とは話していたいけど、こんな話はしたくないわね)

 そんな事を頭の片隅で思いつつ、お兄様に笑いかける。そうすると、お兄様も笑みを返してくれた。

「玲子の考えも分からなくはないよ。それに急進的な者達が危ういのもね。まあ来年には、西田がフランス留学から戻ってくる。あいつは顔が広いから、もう少し情報も入るだろう」

(西田かあ。パリってヨーロッパの共産主義のメッカだし、フランス政府自体左寄りだし、変に染まってたら嫌だなあ)

「そんな顔をしてやるな。あいつは頭も切れるし行動力もあるし、何より人脈が太い。それに欧州で何度か会った時も、実務的な事を熱心に勉強していた」

「そうなんですね」

「ああ。だから、帰国してきたら邪険にしてやるなよ」

 そう言ってウィンクを決められた。
 そうまで言われては、「勿論です」と返すしかない。

 お兄様と鳳の本邸でそんな会話をしているように、満州情勢はこの一ヶ月ほど極端に大きな変化はなかった。

 関東軍と満州党は着実に占領地域を拡大し、満州北部の馬占山などの有力者が「溥儀のもと」に駆けつけ勢力を拡大。満州に隣接する内蒙古でも、近代的装備によって強化された部族が平らげた領域を手土産に、「溥儀のもと」に馳せ参じてきた。

 現地軍閥の残りカスは、大勢を見て時間と共になびく者が増えていたので、事態はどんどん加速している。張作霖の軍閥の残りカスも、北京に移動した者以外は特に反発する事もなく合流してきた。
 しかもその中には、張作霖の息子の一人も含まれていた。当然だけど、張作霖のメッセージという事になるだろう。
 それにしても、大勢が大きく傾いた時の大陸情勢の色の塗り替わりは、本当に急速だ。

 一方で関東軍は、占領地を拡大しているけど都市と鉄道だけで、他の多くは満州党の支配へと入っていった。
 関東軍は、本土から急派された1個師団と朝鮮軍の1個師団を合わせても数がしれているので、いくら強くても主要部だけで手一杯だからだ。
 けどこのおかげで、外から見るとうまく二人三脚しているようにも見えていた。

 一方海外情勢だけど、まだ動きが殆ど見られなかった。張作霖率いる中華民国政府も同様だ。
 ようやく内情が伝わってきた張作霖は、『満州党は高度な自治権とか言っているが、溥儀を担ぎ出しただけで新しい軍閥だ』と言う程度にしか見ていないらしかった。
 真実や真意はともかく、そう考えているのなら動きがないわけだ。
 それに息子の一人を満州臨時政府の中枢に送り込んできたのは、一応は様子を見極めるのが目的みたいだ。

 また張作霖としては、満州南部を取られたのは気に入らないけど、共産党を叩き、さらにその後は満州全土を日本と一緒に制圧したとしても、ソ連と向き合うなら損はない。今や張作霖にとっての地盤は、首都北京を中心とする地域だ。根を下ろして5年も経つ。
 それに彼の目は、満州より大陸中原を見ていた。だから北を固めてくれるのは、有難いくらいだった。

 ただし、中華民国の顧維鈞(こいきん)総理兼外相は、万里の長城を超えない事を満州臨時政府と日本政府に念を押してきた。
 逆に、溥儀が最初から求めていた熱河省については、関東軍(日本軍)が入らないなら問題ないと言う事で、実際に満州臨時政府が兵を進めても何も言ってこなかった。万里の長城の終わりの山海関で、お互いの軍が握手しておしまいという顛末だ。
 熱河省の現地軍閥が、川島さんらの工作もあって張作霖と問題を起こしていて、自らの権力が維持できるなら溥儀への臣従を承諾したのが大きかった。

 これに対して南京を根城としている蒋介石は、揚子江流域の支配を少しずつ拡大しつつあるけど、満州での日本の動きを強く警戒していた。水面下では、張作霖に国連提訴をするべきだと訴えたと言う情報が流れてもきた。
 これに対して、顧維鈞も蒋介石に賛成したと言う話が漏れ伝わってきている。けど、中華民国政府内で顧維鈞と対立する張景恵陸軍司令は、裏で満州党と関東軍と握手していたのでこれに反対。張作霖をうまく誘導している。

 以上のような北京での政治的な綱引き状態だったけど、初動では傍観が優勢。軍閥に過ぎない蒋介石も、事実上無視された。しかもこの一件で、蒋介石の外交的影響力の無さが指摘されて上海の列強からの援助などが減り、蒋介石はせっかく勢力を拡大しつつあるのに窮地に陥っているという噂が流れてきている。
 だから中華民国は、国際連盟にも特に動きを起こさず仕舞い。この先は分からないけど、中華民国としては溥儀を担ぎ出した現地軍閥がイキって軍事行動をした挙句に、日本軍を勝手に引き入れただけ、と言う事になる。

 そして中華民国が世界に対しては何も言わないので、列強の反応は私が不気味に思うくらい薄い。
 けど、「激しくどうでもいい」と言う感想を持つように、列強から見ればそもそも満州は日本の利権だから文句を言うのは筋違い。下手に言えば、自分達も叩かれてしまう。
 それに満州党も日本も、満州の共産党を叩くと言うお題目を掲げているので、取り敢えずは好意的だ。

 また列強にとって、大陸利権の中で上海こそが大事だった。そしてその上海での治安維持には、日本の軍事力が必要不可欠だった。逆に、日本が上海で騒動を起こさない限り、満州で多少好き勝手をしても文句はないと言う事になる。

 私が気にしていたアメリカ政府の動きも、今のところ低調だ。それどころか、アメリカ国内でも反共産主義の世論がかなり強いので、共産主義者を叩く限りは頑張れと声援を寄越してすらいる。
 ただ、現地からの情報では、予想どおりスチムソン国務長官が満州での日本軍の動きを気にしているらしい。
 それでも今は、当事者が動いていないので静観の構えだ。

 内も外も、このまま何事もなく有耶無耶のまま事が進んでくれるのを祈るばかり、といったところだった。

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十月事件 (じゅうがつじけん):
1931年10月の決行を目標として、日本陸軍の中堅幹部によって計画された政変未遂事件。
政府の満州事変不拡大方針への不満が動機。しかし発覚して、計画段階で未発に終わる。

桜会 (さくらかい):
日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指した超国家主義的な秘密結社・軍閥組織。1930年結成。
まとまりがないが、基本的に急進派がやばい。
辻政信も所属していた。

 

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