■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  230 「倒閣運動」 

 11月になった。
 満州では満州臨時政府と関東軍が、満州と内蒙古西部、それに熱河省をほぼ統治下に置いた。ただし熱河省に、日本軍は入っていない。満州軍に一部装備を譲渡し、日本の役人が現地に入ったに止まっている。
 ここでは、小銃と機関銃(チェコの軽機関銃)を装備したモンゴル系の騎兵部隊だけで、19万平方キロメートルもの広大な土地を制圧したと宣伝された。しかもこの総指揮官は、ワンさんこと王破軍将軍。ワンさんは、やっぱり凄い人だった。

 私の前世の歴史だと、政府が世界に対して不拡大方針を示し、それに反発した石原莞爾が熱河省の錦州を爆撃してぶち壊し、若槻内閣は海外から軍の統制が取れていないと国際的信用を失墜させる。
 さらに国連での中華民国との論戦で醜態を晒して悪評を積み上げ、自ら外交の袋小路へと進んでいく。

 一方で今私が見ている状況は、上手く進んでいる。問題があるとするなら、国際社会があまりにも満州問題をスルーしている事だ。一見、不気味なほどだけど、要するに取るに足らない事件としか見ていない証拠だ。

「先に満州党を作って溥儀を招いて臨時政府を立ち上げたのに、なんで? 今更だけど、叩かれなかったのが不思議なんだけど」

「やはり、新たな軍閥としか諸外国は見ていない、と考えるべきかと」

 私の質問に、アメリカ人のセバスチャンが答える。こう言う時に、違う価値観で育った人の意見がすぐに聞けるのは貴重だ。
 だからブレーンストーミングを続ける。

「けど今は、日本政府も日本軍も介入しているのよ。しかも増援すら続々と送り込んでいるし、自ら『事変』、国際紛争だって言っているのに?」

「幣原外相ですら首を捻っているらしいぞ。軍の動きを止める為、最低限の国際的な枷を嵌めた筈が、誰も枷だと認識してない、とな」

 お父様な祖父も苦笑気味に、恐らく加藤高明からの情報を加えるも、その場の全員が疑問を解けないでいる。
 そこに壁際で挙手がある。私のメイドの中でもインテリジェンス担当のトリアだ。

「中華民国が国際連盟に提訴もせず、他国に何も言わない以上、国際政治上で問題は『存在しない』と言うのが暗黙の了解だと捉えている為と考えられます。特にブリテン、フランスと言った植民地や係争地を多く有する国は尚更です」

「あなたの祖国は?」

「民衆のほぼ全ては、ジャパンとチャイナの違いすら分かりません。その民衆は、誰でもいいからコミュニストを叩くなら、そいつを応援すると言う世論が主流です。また、一部の上流階層とインテリだけが正確に事態を捉えていますが、お嬢様の影響で余程の事がない限り大きな声にはならないかと存じます」

「あなたの真の主人のご意向で?」

「左様です。客のプライベートに極力触れないのは、商人のマナーです。それが客の購買意欲を削ぐと言うなら尚更。ただ」

「ただ、儲け話があるなら、片棒担がせろとまでは言わないけど、一声かけて欲しいってところ?」
 
 私の言葉にトリアが恭しく一礼する。
 アメリカの中華地域での門戸開放は、確か日米関係悪化の一つの問題点だから、言ってくるのは当然だろう。私が、鳳が満州に深く首を突っ込んだ以上、この点では出来る限りしたいところだ。
 トリアの綺麗なブロンドを見つつ少し考えてしまうけど、頭を上げたトリアの言葉が続いた。

「その話については、情勢が落ち着いてから追ってお話し出来ればとの言伝を預かっております。それともう一つ、お伝えするべきお話が御座います」

「まだあるの? 次のお買い物の話なら、それこそ満州の件が多少は落ち着いてからになるけど」

「いえ、その件では御座いません。鳳以外の日本財閥の多くが、円売りドル買いを仕掛けてる件です」

「鳳は乗らないのかって話ならノーよ。ねえ、お父様」

「たまには義理を通さないとな。加えて方々から、金輸出再禁止になってもフェニックス・ファンドのドルを持って帰ろうとしないでくれ、と強く頼まれたところだよ」

「あー、それはそうよね。うちのドルは、他の財閥の火遊びどころじゃないものね。それで、トリアがこの話をするって事は、あなたのご主人様が火遊びするか悩んでいるの?」

「ご存知の通り、既にアメリカの一部は独自に動いておりますが、鳳がするのなら別に資金を出しても、と」

「そうまでして黄金を集めたいかなあ。けど、若槻内閣の倒閣運動って、もうそんなに進んでいるの?」

 言いながら視線を貪狼司令に向ける。
 私から見て少し不思議なのだけれど、何故かこの世界でも若槻内閣の倒閣が進んでいる。勿論理由もあるけど、史実と比べ物にならないくらいマシな状態なのに、結局起きる事件は起きてしまう事が殆どだ。
 未だに納得いかないので、つい聞いてしまった。そんな私に貪狼司令は、特に感情を見せる事なくいつもの爬虫類っぽい顔を向けてきた。

「はい、進んでいます。保って後ひと月でしょう。そもそもが、満州での動きに対して、若槻内閣は不拡大政策を取ると考えられていた。しかしです、水面下で若槻内閣が拡大方針を推すように包囲されている事を多くの者が知りません。まずここで、内と外での認識の違いが出てしまった」

 早口でちょっと嬉しそうな貪狼司令。それだけで情報が沢山動いていて、若槻内閣の状態が悪い事が見えてしまう。
 ただ、腑に落ちない事がある。だから聞いた。

「加藤様とも繋がっている三菱に、その話は通らないわよね」

「円売りドル買いに関しては三菱銀行によるもので、本家は関わっていません。止めようとしたら、もう後戻り出来なくなっていた、と言う話のようです」

「上が統制する前に飛びついたのかあ。三菱ならそんな隙は見せないと思っていたけど、そうでもないのね」

 貪狼司令の言葉を聞いて溜息が出る。

「あそこは図体がでかいので、統制の難しさがあるでしょう。それに、若槻内閣の動きが有言不実行に映ったのでしょうな。だから事変介入の方針となっても、逆に政権はいつ離反者が出て倒れるかと言う話になった。何しろ、自分達のお題目である大陸不干渉の原則に反している」

「それは何度も聞いた。その想定を考えなかったのは、迂闊だったかもね。けど、満州での『事変』は発端ってだけよね」

「はい、若槻内閣の問題の根本は緊縮財政です。これを軍も政財界も気に入らない。インフレ抑制には効果はありましたが、不景気の時期にする事じゃ無かったのではと民心も離れつつある。そこに満州での騒動で、政権はここまでという話が出てきた」

 再度溜息が出る。満州事変の推移が変化して外交状況が安定していると言うのに、内政は何も違っていなかったという事に。
 それに1年ちょっとの短命内閣とか、それはそれで信用問題で対外的にはマイナスだ。それが次の私の言葉になった。

「民政党内閣には、予算編成前ギリギリの来年2月くらいまでに交代して欲しいって言うのも聞いたわ。けど軍としては、今は事変を肯定している内閣を倒す利点が薄いでしょ」

「事変に対して、より積極的な政友会内閣が良いって意見は多いよ。実際、動いている者が多数いる」

 とは、お兄様のお言葉。
 そう、陸軍もすでに倒閣運動に動いている。そして陸軍と同じく予算の欲しい海軍も、政治には直接関わらないけど、同調する動きを見せている。

「その前に、民政党が金輸出再禁止と経済対策の為、政友会との連立を組もうとして失敗したと言うのが大きいでしょうな。しかも、言い出した自分たちの方から反対が出ての失敗だ。そしてこれで倒閣はさらに早まったと、各財閥はさらに円売りドル買いを加速してしまった」

「そして意外に倒れないので、各財閥の円売りドル買いのやりすぎで尻に火がついている、と」

「左様です。そして倒閣を画策している連中は、ドルの買い過ぎで窮地に陥っている各財閥を救済し、さらに金輸出再禁止による為替の大幅変動で巨利を得させようと考えている」

「それで内閣を変えて即時に金輸出再禁止の実行? けど、金輸出再禁止は、若槻内閣も濱口内閣の時から時期を見て行うって言っているわよ」

「だがこの1年、一向に行わなかった。しかも、各財閥とその後ろにいる政友会の思惑が見えている。だから民政党としては、今更安易に金輸出再禁止には出来ない。だが、ドル買いをしすぎた馬鹿どもには、もう時間がない。年内には何とかしたいでしょうな」

「蔵相の井上準之助は? あの人、田中義一元首相と対立しただけで、政友会でしょ?」

「政党政治家ではありません。ですが今は民政党への義理立てか、当人の政治生命が気になるのか、金輸出再禁止に強硬に反対している。倒れた濱口雄幸への義理立という噂もありますが、まあ当人の都合でしょう。政権が変わった時に禁止しとけば万事良かったのでしょうが、後の祭りですな」

 現状の復習としてのやりとりを一通りして、貪狼司令のトドメの一言に私は机に突っ伏す。もうダメすぎる。
 そこに語調だけは面白がっているお父様な祖父の声。

「万策尽きたか?」

「最初から策なんてないわよ。けど、これって、財閥が民衆から絶対に恨まれるわよ。不景気なのに、財閥だけが政府と癒着して甘い汁を吸うって」

 そう言いながら私の頭の片隅に思い浮かぶのは、財閥もターゲットにした血盟団事件だ。何しろ私の前世の歴史だと、来年2月に起きる。
 もちろん、この世界は民間警備が認められ、要人警護は多少厳重になった。けど警察は、陸海軍の跳ねっ返りや主な左翼と右翼の監視で忙しい。しかも不景気で不満を溜めた連中までもが、雨後の筍のごとく増えている。そこに、マークが甘くなっているほぼカルトと言っていい神出鬼没な民間のテロリスト集団だ。どこまで警護出来るか、かなり未知数と言える。

 集まっている鳳の裏の中枢の人達も、私の言葉に反論を言ったりはしない。濡れ手に粟で儲けは出るかもしれないけど、馬鹿な事は確かだからだ。しかも時期、時勢を見ていない行いだとも分かっているからだ。
 そして、話し合い情報を交換、共有する以外に、今は大きな事が出来ないのを実感するだけだった。
 だから誰かのため息が、この日の話し合いの幕となった。

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