■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  231 「暗雲への道標」 

 1931年11月11日、渋沢栄一がこの世を去った。
 その通夜が14日で、葬儀は15日。幕末から昭和までを生きた経済界の最後の元老とでも言うべき人の死を日本中が悼み、多くの人が葬儀に参列した。葬送の列を見送る沿道の人は、4万人に達したと新聞に出ていた。
 それだけでなく、病状が悪化してからは新聞に病状や体温込みで掲載されていたりしたので、日本中の人が偉人の旅立ちを知っていた。

 あまり縁のない鳳一族からも、お父様な祖父が葬儀に参列した。
 正直なところ、渋沢栄一はライトサイド過ぎる人で、基本ダークサイドな鳳一族とご縁がないのは当たり前だ。それでも間接的に、経済面では繋がりやご縁は皆無とはいかないほどの影響力のあった人なので、葬儀くらいは顔を出したと言うところだ。

 私にとっての渋沢栄一との唯一の接点は、1927年の「青い目の人形」の時に運営資金として寄付をした事くらい。
 私個人としては、西洋人形というかアンティーク・ドール好きだから、もっと深く関わりたいという気持ちは強くあった。けど、ちょうどその頃、鳳が鈴木を飲み込むのに忙しく手が出せなかった。
 寄付の時に、ちょっとした手紙を添え、その返答を頂いたのが唯一の交流と言える。

 ただ、去年くらいから、表向きの鳳グループは異常なほどのライトサイドな振る舞いに終始している。
 社員の皆様に金をばら撒き、海外でじゃんじゃん買い物をして開発計画を立ち上げ、政府に莫大な献金をして公共事業を拡大させ、さらには去年の豊作飢饉でも色々とした。

「ねえ時田、今年の不作、特に東北・北海道の凶作対策って、私あんまり関われてないんだけど、問題ないのよね」

「はい、以前より対策を立てた事を実行しております。ご存知のように、米価の方も法制度のおかげで許容範囲。ただ、今はまだ宜しいですが、東北・北海道での食糧不足が懸念されます」

「うん。その為に去年買ったもんね。それで、去年買ったお米ってどうなっているの?」

 部屋にいる時田へと、視線だけでなくイスごと体を向ける。
 車輪付きの回るイスは、大元は私が事務用にとイラスト付きで作ってもらったやつだけど、多少は低価格化したものがこうして普及しつつある。いつぐらいに発明されたのかは知らないけど、使い慣れたものがあると少し落ち着く。

「ご指示通り、本当に食料が足りないところに無償で供給しておりますが、それも今のところは限られております」

「まあ、そりゃあそうか。食糧不足が本格化するとしたら、冬になってからか」

「それも御座いますが、法整備の結果、去年の備蓄米が日本各地に相応の量が御座いますので、求めが予想した程はございません」

「そっか。不用意に放出しても米価を下げるだけだし、もう1年越せない倉庫の分の一部を追加で満州に送りましょう」

「川島様への援助で宜しいでしょうか」

「うん。そっちはそれで。あと東北・北海道には、去年と同じように農家に対する超低利での融資を続けてね。うちが、僅かながらでも世の中の安全装置になるのよ」

「それなのですが、他の銀行から苦情がかなりきております」

「低利にしすぎ? うちが預金者を集める手段にしている? お金持っているから、あざとい事が出来て羨ましい? 後はなんだろう? 他にどんな悪口がある?」

 言い過ぎたらしく、話し相手をしていた時田が苦笑する。部屋にいるみんなも、大半がそれぞれの気持ちから苦笑を浮かべた。
 ここは鳳商事の社長室。総研に寄った帰りに、珍しく上の階に上がってみた。ここは鳳の表の前線司令部なので、凄く活気がある。と言っても、私はお邪魔虫でしかないので、「皆様ご苦労様です」と挨拶して、事前に用意したお菓子の差し入れの事を告げると、時田のいる社長室へとすぐに入る。

 部屋には時田以外に、セバスチャンとトリアもいる。それ以外には、時田の鳳商事での社長秘書が数名、広い社長室の別のテーブルでお仕事中。この部屋に居るという事は、余程込み入った話じゃない限りは話していい社員だ。
 逆に総研の地下司令室には、貪狼司令とお芳ちゃんが残っている。

「悪口については、概ねそんなところですな。どの財閥銀行も、今はドルを買い過ぎて身動きが取れないので、余計に苦情の一つも言いたくなるのでしょう」

「自分の不始末を棚に上げて、他人の文句が言えるって良いご身分ね。無視しといてとは言わないけど、適当にあしらっといて。やめる気は無いから」

「心得ております。一応、お耳に入れたのみで御座います。それに、東北・北海道の政財界の方からは、非常に感謝されております。各財閥も、内々に文句を言う以外は何も出来ないでしょう」

「そう願いたいわね。けど、来年度予算でまた『山吹色のお菓子』をたっぷりと献納したいところね」

 そこまで言って腕組みして考え込む。
 言って無理な事が自分でも分かっているから。何しろ今は緊縮財政の民政党内閣。本年度予算の時にも一応お伺いを立てたら、丁寧な言葉で謝絶されてしまった。
 だから言っても仕方ない。政友会内閣になって、高橋是清の弟子か薫陶(くんとう)を受けた人が大蔵大臣になるのを期待するしかない。本人が一番だけど、無理させたくはない。

「まっ、それは今はいいわ。それより、明るい話はないの?」

 気分転換でそう言ってみたけど、全員の顔が否定していた。
 私が今月の明るいニュースで思いついたのは、7日に私がよく知っている大阪城の天守閣が完成したくらいだった。渋沢栄一の葬儀が終わって間なしのこの時期、と言うか今月は何もない。
 仕方ないのでもう一度ため息をつこうかと思ったら、セバスチャンが口を開いた。

「明るいとは言い難いのですが、アメリカのダウ・インデックスが100ドルを割りました」

「ついに割ったかあ。まあ、あと半年は放置でいいわよ」

「……まだ、落ちるのですか?」

 やっぱり、この辺りが底値と思っていたらしい。情報収集しても、アメリカでもその予測が強い。だがしかし、だ。

「うん。来年春には落ちる。夏の前半くらいに最安値。その辺りから買い始めるから、来年に入ったら準備ってところね」

「畏まりました。ちなみに、どの程度まで? あと少しで1924年の最安値と同じになりそうですが、それを下回るのでしょうか」

「うん。ただ、うちが色々お買い物しているから、もしかしたらほんの少し私の『予想』より高くなるかも」

(私の買い物で、少しくらい変化が欲しいところだしねえ)

 淡い期待思いつつ希望的観測を口にしたのに、時田以外はドン引きしている。その顔を見て、セバスチャンにも奈落の先以後の事を教えていなかった事を思い出した。
 しかしセバスチャンの表情は、一瞬で改まる。

「それで、どの程度買われますか?」

 ビジネスマンの真剣な表情だ。トリアもセバスチャンの声で態度が一変する。まあ、こっちは別の事情だろう。

「最低でも7割は使うし、私の予定では8割まで買い物で使うから、アメリカに置いている現金のうち残り2割。3億ドルってところね」

「畏まりました」

 そして恭しくお辞儀。その横で、トリアが何か言いたそうにしている。
 だからニコリと笑みを浮かべて声をかける。

「トリア、絶対によそで言っちゃダメよ。言ってヘタに誰かが大きく動いたら、私の予想よりもっと酷い事になる可能性があるから。この話は、そう言う危ういものよ」

「では、せめて質問を宜しいでしょうか。もちろん、時期が過ぎるまでは決して他言致しません」

「うん。どうぞ」

「この話は、プリーステス(巫女)としてのものでしょうか。総研のどこか秘密の部署での研究結果でしょうか」

「両方ね。下がる前提で分析してもらったら、酷い数字が出たわよ。私も驚いたもん」

「……それを拝見する事は?」

「貪狼司令に聞いてみたら? 楽しそうに、講義付きで話してくれると思うけど」

 その言葉に、トリアが少し顔を青ざめさせる。貪狼司令が楽しそうに話すのだから、酷いに決まっていると思ったんだろう。その通りだけど。
 ただ、アメリカ市場に楽観論があるのを私も知っている。それが前の世界大戦後の株の低迷時期以下になるとか、かなり大きな衝撃なんだろう。噂で聞こえてくる話も、年内がアメリカ株の底値で来年には景気自体も回復すると言う話ばかりだ。
 もっとも、すでに立ち直っているセバスチャンは、いつもの涼しい顔から変化はない。
 そしてトリアが沈黙したので、今度は自分の番と口を開く。

「フーヴァーモラトリアムは失敗すると見て良いでしょうか?」

「すると言うのが総研の結論。だいたい、かの斜陽の帝国が、この9月にたまらず金本位制を停止したばかりよ。景気はまだ悪くなるって言っているようなもんじゃない」

「やはりそうですか。では、お嬢様の読みは?」

「景気回復の? 日本限定なら言えなくもないけど、世界全体だと向こう10年は無理じゃない? あの奈落を見たでしょ?」

 なるべくサラッと本当の事を言ってあげたのに、「マジかよ」って表情を一瞬されてしまった。しかも10年後というか、もう8年ほど先に始まる好景気は、戦争景気でしかない。
 なって欲しくはないけど、ドイツじゃあちょび髭おじさんの政党が年々どころか、1シーズンごとにでかくなっている。

 アメリカは、なまじ経済と産業が発展し過ぎているし、図体がでかすぎるから、戦争景気以外で今の不景気からの根本的な脱出は、ほぼ無理ゲー。そしてアメリカが、現状のまま貿易と金融で対外的に強硬路線を進むと、欧州列強によるブロック経済が待っている。そうなったら、「持てる国」と「持たざる国」の対立へと進む。そして日本では、「持たざる国」のあがきとして『満州事変』が絶賛進行中だ。
 もう、世界大戦の袋小路しか見えてきそうにない。
 「マジかよ」って思うのは、こっちの方だ。
 けど、絶望しかないわけじゃない、と思って足掻くしかない。

「まあ、日本はもうすぐ好景気になるわ。満州への投資も始まるし、日本列島は私達が大改造するからね」

「まったくですな。さあお二人とも、まずは出来る事を致しますかな」

 さっきから聞くだけに徹していた時田の涼しげだが力強い言葉で、アメリカ人二人の心も再始動した。

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フーヴァー・モラトリアム:
仏・英などの対米戦債支払を1年間猶予する代りに、ドイツの仏・英などへの賠償支払も1年間猶予する債務支払猶予措置。
31年6月にフーヴァー大統領が声明を出して、12月にアメリカ議会が承認する。
けど、時既に遅し。景気もさらに悪化する。ドイツは、劇薬を使う道へとひた走ってしまう。

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