■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  239 「兆候なし?」 

「これで、また一つ大逆事件が未発に終わったって事かあ」

「何やらご納得されていないみたいですね」

「うん。私の知らない未遂事件だから」

「それは、お嬢様の見る『夢』とこうして過ぎていく毎日が、日に日に違ってきているからではないのですか?」

「……なるほど、そうなのかもね。良い事言うわねシズ」

「恐れ入ります」

 1月初旬のとある朝、シズとそんなやり取りがあったけど、おそらく私の前世の歴史で起きたであろう事件は起きなかった。分からないのはもどかしいけど、何もないのは良い事だ。
 その代わり、一人の逮捕者を出した。捕まった日は1月8日だけど、多分何かしらの因果が巡っているんだろうと思えた。
 なお、犯人の逮捕自体は呆気なかった。
 特高が不審な人物を見つけ、逃げたので取り敢えずって感じで拘束して尋問。念のため所持品を調べると手榴弾一発を所持して、無事逮捕と相成った。

 そしてその後の取り調べで、陛下を襲撃するつもりだったと自供。事件を未然に防いだとして、特高はお手柄。犬養毅などから感状を授与。
 ただし1925年のお兄様のご活躍と違い、警官が犯人を逮捕したと言う顛末でしかないので、捕まえた特高の人はお兄様のように感謝の嵐には恵まれなかった。
 一方で、多少の嘘でごまかせば良いのに馬鹿正直に自供なんてするから、逮捕された人は大逆罪によって極刑に処されてしまう。

 その後、上海の方では日本に反抗的な半島の人達の捜索から始まる諸々がかなり熱心に行われたらしいけど、租界以外では捜索にも限界があるらしく、すぐに何かが見つかったなどと言う話はなかった。
 しかし、上海は私の前世の歴史よりも多分静かだ。

 蒋介石率いる国民党の右派は民衆の人気取りの為に「日貨排斥」をしているけど、それは彼らが地盤としている南京を中心とする一地域にとどまっている。上海でもその兆候は見られるけど、それ以上に共産党が地味に、そして無軌道に暴れているので全然目立っていない。
 それに蒋介石の行いは、張作霖が主席を務める中華民国政府の政策に反しているので、他の地域に波及していない。すごく中途半端だ。

 さらに蒋介石は、満州党及び満州臨時政府が日本の傀儡だと叫び、日本が満州で大規模な軍事行動を取った事を激しく非難している。けれども、張作霖の中華民国政府が「軍閥」と言う形で「自治政府」を認めている以上、国の声になることもない。
 そして満州臨時政府は蒋介石に激しい敵意を見せて、非難合戦を始めている。そこには関東軍の姿がない。と言うか、聞くに耐えない大陸独特の罵詈雑言の応酬に、日本人はドン引き状態だ。

 そして満州臨時政府と関東軍が支配するようになった満州だけど、『満州事変』が一応ひと段落を超えて、不気味なほど順調に進んでいる。
 戦闘も、ごく限られた場所で散発的に起きている程度で、ほぼ完全に支配を確立したと言っても良い状態。だから、早くも日本からの大規模な投資と開発という話が起きている。
 日本で政権交代が起き、犬養毅の政権は間違いなく積極財政に転換し、不況脱出の為にも大規模な公共投資の実施が非常に強く噂されていたからだ。

 そして日本国内の世相も明るい。
 金輸出再禁止による安堵、積極財政、高橋財政への期待、満州を事実上牛耳った事に対する、開発と投資への期待、様々なものが重なって、ようやく不況脱出という雰囲気がある。株式市場も、年末から大きな上昇を続けている。
 それだけ世界恐慌に端を発する、日本での『昭和恐慌』の傷は深かった。
 けれども私から見れば、かなり軽傷で済んでいた。

 私の前世の歴史だと、私が学校で習ったり自力で勉強した限りでは、今私が目にしている状況と比べるとかなり酷かった。
 直近だと、1929年12月に金本位制に復帰して、世界経済混乱とドル投機で大量の正貨を流出させた。

 けどこの世界では、金本位制復帰は28年の夏だし、その時点で平価も切り下げた。日本経済自体も、昭和金融恐慌そのものを未発に終わらせたので、私の前世よりずっとましだ。ましな筈だ。
 私の前世では、金解禁から停止までの間に日銀が持っていた金地金の7割以上も流出している。アメリカがそれだけ吸い上げたという事だけど、時期も何もかもが悪かった。民政党政権は、何をどう言おうが非難されても仕方ない。それが半減程度で済んでいる。
 この世界だと、1920年の再生時に11億円分あった日銀が保有する金地金は、大恐慌までは9億円前後で維持されていた。昭和金融恐慌が未発なのと、高橋是清が財政を担っていた時期が長かったおかげだ。

 なお私の前世の歴史では、私が朧げに覚えている限りでは1920年代の日本経済の混乱は中々に酷い。
 大戦後の恐慌、関東大震災による震災恐慌、昭和金融恐慌。まるで数年に一度の恒例行事状態。そこに仕上げの世界恐慌(昭和恐慌)が加わる。
 しかも世界恐慌すぐに、金解禁という悪手。世界恐慌発生による不景気と金解禁の影響から、深刻なデフレが発生した。

 そしてアメリカの不景気で、それまで、それこそ明治以来の主力輸出商品である生糸(繭)の輸出が一気に4割以上も激減。それ以外の輸出製品も大幅に減少。
 国内経済は30年の春頃から急速に冷え込み、株の暴落によって、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた。
 教科書の資料集などで見た、『大学は出たけれど』の言葉通り、この時代のエリート中のエリートである大卒者ですら就職先がないという状況に陥る。

 それなのに民政党政権は、緊縮財政を実施。
 確かに、日本の金地金の激減もあるから、裏付けのない通貨発行も積極財政も難しい。それにインフレ抑止は理屈の上では正しい。当初は国民の多くにも支持された。けど、時期というものがある。
 そして私がいるこの世界と同様に、32年から高橋財政が展開されるけど、純粋な公共事業拡大は3年だけ。その後も一般財政としてはそれなりに支出は維持されるけど、インフレの懸念が高まったので、一旦は積極財政を少し控えようとする。

 そしてこの時期、というか30年台前半は、繭(生糸)の暴落に加えて、特に東北地方が豊作飢饉と冷害のコンボに加え昭和三陸津波で、惨憺たる状態に陥っている。
 これも教科書などですら見た、農村での娘の身売りや欠食児童が急増した。
 東北や信州から大量の満州移民が発生したのも、農村部の困窮と疲弊が大きな要因となっている。
 そして軍事的、政治的に見ると、こうした農村の窮乏は陛下の周りの奸臣や腐敗した議会、さらに私腹を肥やす財閥が悪いのだとして、テロとクーデターの頻発へと繋がってしまう。

 一方で、今私が生きている日本は違う。違う筈だ。
 不景気は酷いけど、私の予想では前世の歴史の7から8割程度には押しとどめている。半分くらいは、私や鳳が色々と動いた結果だと思いたい。
 私の前世の歴史だと、確か4分の3程度に一気に落ちた日本のGNPは、1931年で1929年と比べると1割程度の下落で済んでいる。アメリカや欧州の一部の国で29年の6割近くまで落ちた事と比べると、軽傷とすら言える。
 しかもこの2年で色々と仕掛けてきた。政府が積極財政に転換してくれれば、それも大きく花開く。

「反転攻勢と行きたいけど、その為にも世の中は波風立たないで欲しいわね」

 仕事部屋で資料を見つつの私の独り言。最近独り言が多くなった気がする。
 そして同じ部屋にいるシズとリズ、それにお芳ちゃんは、たいていの場合は私の独り言を無視するようになっている。メイド2人は当然だけど、お芳ちゃんもいちいち相手にしていられないみたいだ。
 けど、そのお芳ちゃんが、何かの紙束を持って私の机へとやってくる。

「はい、その波風の資料」

「せんきゅー。これで見る限り、出来る事はしているのよねえ」

「何が不満?」

「不満より不安かなあ。昨日は事件が未然に防がれた。けど、なんで防げたのかが、よく分からない」

「分からないから不安? そんなの当たり前でしょ」

「……相変わらず、身も蓋もないなあ。まあ、かなり杞憂ってやつだとは自分でも思っている」

「うん。打てる手は打っている。お嬢が警戒の指示を出した頭目の井上って人も、一旦だろうけど東京離れたらしいよ」

「そりゃあ万々歳。陸軍は内輪揉めで忙しいし、国家主義者の皆さんも、陸軍の危険な連中が動かないから口先だけ。海軍は軍縮条約は気に入らないけど、陛下に叱られたトラウマがまだ強すぎる」

「うん。お嬢が言ったテロもクーデターも兆候なし」

「上海は?」

「依然として、共産党の残党狩りとテロと暴動誘発の鍔迫り合い。それに、周辺軍閥には誰も近寄らせるなって英国が言っているから、蒋介石が駆け回って南京より東に軍閥が近寄る兆候もなし。お嬢の懸念は皆無だと思うけど?」

 お芳ちゃんが言っている私の懸念は、言わずと知れた『第一次上海事変』だ。
 けど、私が前世で見たような、激しい日貨排斥はないし、関東軍も謀略を起こしていない。満州事変が政治的には中途半端に進んだ影響か、大陸の民衆のナショナリズムも、日本軍が北で暴れたという以上で盛り上がらず。共産党が喚き立てたけど、逆効果にすらなっている。

 その前に、去年の夏から共産党が頑張りすぎたせいで、上海租界には日英米の陸戦隊と海兵隊だらけ。日本海軍陸戦隊7000名を中心として、総数は既に1万5000を超えている。しかも今年に入って、日本だけじゃなくて、イギリスとアメリカも正規の巡洋艦が常駐するようになっている。
 仮に中華民国の軍閥が軍団(路軍)の規模で攻め寄せても、当面程度なら単独で防衛可能な戦力だ。しかも日本は、万が一の場合に備えて最低でも陸軍1個師団を緊急派遣できるように準備している。

「そうみたいね。けど物語だと、こういう時はどこかに落ちし穴があるものなのよね」

「それこそ物語の読みすぎ。歴史書でも読んだ方が良いんじゃない? 物語より参考になると思うよ」

「それは言えてる。お勧めは?」

「好きなの読めば? 気分転換なんだし」

「それもそうか」

 そう言って笑い返したけど、やっぱり不安は消えない。
 私視点の歴史の変化とその派生で、確かに多くの事が順調とは言えないまでも穏便に進んでいる。けどその反面、各所の不満は溜まっている筈だ。
 不景気は緩和したけど、緩和したと『知っている』のは私と私の話を聞いたごく一部だけ。世の中は、不景気に酷く喘いでいる。濱口雄幸の暗殺未遂のような事件も実際に起きた。

 そんな中で私が出来る事といえば、先回りで不穏な人達の動きを監視し、出来れば押さえつける以外だと、根本問題を解決するべく日本の景気を浮揚するしかない。
 何しろ私は財閥の人間だ。金持ち喧嘩せずな状況を作ればいい。お腹が一杯だと、人は大抵のことには寛容になれる。
 そしてその結論にはいつも至るけど、何をするにしても限界も壁もある。

(お父様に相談しても、これ以上は意味ないか)

 結局、それ以上は何も思いつかないまま日々は過ぎそうだった。

__________________

また一つ大逆事件が未発に終わった:
桜田門事件 (さくらだもんじけん)
昭和7年(1932年)1月8日に起きた昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。李奉昌大逆事件とも呼ばれる。
顛末は割愛するが、事件自体はかなりお粗末。

それでも犬養毅ら内閣は総辞職を考えるが、陛下に止められて内閣はそのまま続行。ここで総辞職していれば、極めて短命な内閣で終わっただろうけど、犬養毅は暗殺されずに済んだのだろう。

前にもどる

目次

先に進む