■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  240 「上海事変はどこ?」

「上海は?」

「変わりありません」

 鳳ビルの奥深く、鳳総合研究所の秘密区画で、今日も今日とて私の決まり文句につれない返事。
 返事の主の貪狼司令は、私には悪態一つつくでもなく、淡々と返事を返してくれる。
 そんな横では、私の脇をすり抜けて部屋の奥へと勝手に歩いて行くお芳ちゃんが、嬉しそうに資料に触れる。
 今日も私の不安をダシにして鳳総研に足を運んだわけだけど、結局1月いっぱいは空振りもいいところだった。

「そっか。じゃあ、私の『夢』は完全に外れか。……良い事よね」

「……お嬢様、部屋を移動しませんか?」

 貪狼司令の少し探るような目線。限られた人にしか話せない内容があると言う事だ。
 だから無言で頷き、奥の部屋へと移動する。その部屋は、時折使う秘密の会議場。防音も防諜対策も万全すぎるくらい万全の部屋。数分後には、私と貪狼司令、それに貪狼司令が誘ったお芳ちゃん。それにメイドのシズとリズが、貪狼司令を胡散臭げに見つつ入ると扉を厳重に閉じる。

「で、何を聞かせてくれるの?」

「あ、いえ、むしろお伺いしたい事がございまして」

 貪狼司令の珍しい表情が私を見る。『夢』の話というわけだ。

「上海での私の『夢』について?」

「左様です。どのような状況だと大規模な戦闘が起こり得たのか、材料が足りず推測すら難しいものですから」

「じゃあ、暇つぶしに聞いて。もう私の妄想戦記でしかないけどね」

 そう言って、軽く『満州事変』に触れてから1932年1月末から5月にかけて起きた、『第一次上海事変』を私の前世で記憶している限りで聞かせた。
 ざっと10分のにわか弁士様だ。
 そして実質一人の聴衆は、聴き終えると深く納得顔になる。

「それは確かに、お嬢様が気になさるわけだ」

「納得してくれた。それで何かの役に立つの?」

 お父様な祖父やお兄様、時田には一度話した事はあるけど、状況が変化しすぎて話してもあまり意味がないと考え、話さずじまいに終わった話に、目の前の男はメガネをキラリとさせんばかりだ。

「勿論です。上海を何故攻めるのかと言うパズルのピースがこれで埋まりました」

「じゃあ、その完成したパズルを見せてくれる?」

 ちょっとポーズをつけて聞いて見ると、貪狼司令は薄く笑った。

「はい。と言っても、答えは今更です。ただ、お嬢様はもしかしたら勘違いなされていたのかもしれません」

「勘違い? 何が? どこが? 私は『夢』を見たまま話しただけなんだけど?」

「では、その『夢』そのものが、私の認識か常識と違っているのやもしれません」

 そう言いつつ、人差し指で自分のひたいをトントンと軽く叩く。

「貪狼司令の常識って?」

「上海に戦闘を仕掛けてきた軍閥ですが、そいつらのおつむは前近代のままではないでしょうか」

「近代的な軍閥、じゃなくて群雄割拠の武将って感じ?」

「まさに」

 なんか嬉しそうに答える。ちょっと癪だけど、まだ全然見えてこない。

「まだ答えが見えないわ? 何が違うの?」

「近代の軍閥なら、海外の情勢を多少は見る。少なくとも大陸に来ている列強の事を考える。だから列強も、少ない軍隊で上海を支配できる。そうですね」

「そりゃあそうでしょ」

「また、お嬢様の『夢』の状況だと、日本を叩けば民衆が喜びやすい。だから、後から蒋介石なりの入れ知恵で日本を上海から追い出すために頑張ったと言い訳して、それが大受けした」

 それだけ言われて、ようやく見えてきた。
 私の前世の歴史は、少なくとも戦闘の発端は近代的な政治や外交とは関係なく、後先も外交も考えていない、一人の男の単なる強欲から始まったと言う事だ。
 そして私がその答えを告げる前に、お芳ちゃんの声。

「上海攻めた武将は、単に自分の手の届くところに上海があるから略奪したいと思って攻めただけ、って司令は推測したわけだ」

「皇至道(すめらぎ)嬢、その通り!」

「じゃあ、『夢』の中の蒋介石の日貨排斥は? 大陸の民衆の声は? それ以前に関東軍の謀略は?」

「全て、とは言いませんが、上海を攻めた軍閥の男が途中から言い始めた言葉を証明する為の『歴史的事実』、と言う事になるのでしょうな。単に一人の男が、己の強欲だけで手薄に見えた上海を攻めたと言うより、近代史の上では説明しやすい。それに大陸の連中や、日本に不利益をもたらしたい連中にとっては、プロパガンダとして大いに利用できる」

 言葉を結んだ貪狼司令は、めっちゃ満足そうだ。
 なんて言うか、喉に引っかかった魚の小骨が取れたって顔をしている。
 それに対して私は、情けない表情になっている自信がある。
 けど、まだ言いたい事はある。

「けど、日本の租界だけ攻めて、日本軍とだけ戦ったのよ」

「それは当然の選択でしょう。周りの日本が悪いと言う声くらいは聞いている。だったら、まず日本を叩くでしょう。それに敵は少ない方がいい。
 また、日本租界、いや、そう呼ばれる地域は政治的には租界ではない場所に多くが広がっている。しかも租界から北に突出した形で。しかもその中には、最も多くの外国人が滞在している。略奪するなら、まずここだ。後はまあ、成り行きでしょう。何しろ連中の目的は略奪だ。ダメなら、そこで逃げればいい。上海の外国軍は、どうせ追いかけて来ないですしな」

 貪狼司令が早口で言い立てるけど、比例して私の常識が崩れていく。

「つまり何? 上海が平和なのは、その男に率いられた軍閥が上海近くに来なかったおかげって事?」

「私の推論に過ぎませんが、結論から言えばそうなります。ですが、大陸情勢が『夢』とは全く違うので、その軍閥の行動も違っている可能性が高いのも重要かもしれません。
 また南京には、蒋介石と彼に近い軍閥がいます。それが動かないのは、列強が動くなと言っている事、共産党が上海でバカな事をしているので共犯にされたくない事、列強が上海の軍備を増強している事、そもそも蒋介石が中華民国の為政者ではない事、南京が首都にならないので、連動して上海の繁栄がお嬢様の『夢』ほどではない事、様々な要因も絡んでいる可能性は十分にあります。
 勿論、満州での情勢が大きく違う為、関東軍がわざわざ上海で列強の目をごまかす必要がない、と言う要素も大きいかもしれません」

 長々と言い切った次はドヤ顔だ。この顔でドヤ顔なので、かなり圧が強い。
 それに対して私は、かなり深くため息をつくばかり。

「エーっ、マジかぁ。けどまあ、理由がそれだけなら、何か策を立てられた気がするなあ」

「お嬢は、何か策を講じる気だったの?」

「うん。そもそも去年の夏に上海行ったのも、下見と直接のコネを作りたいと思ったから」

 そこで何がどうなったのかを思い返してみるけど、思い返すほどわけが分からなかった。
 書き出して頭を整理したいけど、お屋敷以外で記録に残すわけにもいかない。

「けど、共産党が私の知らないテロや暴動起こすし、私は黄先生の言うがままに満州行く事になって、大連で川島さんに会って、半ば勢いで満州の情勢を引っ掻き回すことにして、けど実はお父様達は前から準備してて、そしたら情勢が全然違うようになって、関東軍は満州以外で動かないし、後それから、えーっと、なんだっけ?」

 言いながら頭を抱えてしまう。

「もう少し頭の中を整理してから話そう。けどまあ、だいたい分かった」

「何が?」

「お嬢の言いたい事」

「私は分からない」

 私の頭は、まだ混乱が続いている。なんだか貪狼司令に、私の固定観念を粉砕された気分だ。
 無防備に見える獲物がいたから襲いかかっただけなのに、一応のボスと民衆が勝手に民族の英雄だとばかりに応援してくれたから、祖国の為の正義の戦いって事にしましたとか、マジ有りえない。
 陰謀史観どころか、歴史をバカにしているようにすら思える。けど、歴史が作られる現場なんて、案外そんなもんかもって思う私もいるので、余計に頭が混乱してしまう。

 そしてそんな混乱する私を、二人が面白そうに見ている。後ろを見る余裕がないから、シズとリズがどんな風なのかは分からないけど、もう他人がどう見ているかとかどうでもいい。

「ハァ……なんか疲れた」

「明日も来られますか?」

「もう、上海の事は、何か起きたら知らせて。兆候も何もないんでしょ」

「はい。上海の共産党の残党は注意すべきですが、蒋介石も南京付近の軍閥も動いてはおりません。動くとしても、上海以外の共産党を攻撃する場合だけです」

「それは毎回聞いた。じゃあ、上海付近の軍閥の移動には特に注意しといて。……帰る」

「はい。承りました。では、いつ国内の件についてお聞きになりますか?」

「行動は掴んでいるんでしょ? 警察も特高も憲兵も動いているんでしょ? 私は自分がテロに遭わないようにだけ気をつけとくわ」

「はい。是非にそうして下さい。では、何かありましたら直ちにご一報致します」

「よろしく。お芳ちゃんどうする?」

「もう少しいい?」

「好きなだけどうぞ。リズ、付いていてあげてね。シズ、帰りましょ。あ、帰る前に、鳳カフェで甘いもの買ってきて。頭に糖分足りてないみたい」

「イエス、マム」

「畏まりました」

 メイド二人の声だけが、いつも通りだった。

__________________

第一次上海事変 (だいいちじシャンハイじへん):
1932年(昭和7年)1月28日から3月3日に発生した、中華民国の上海共同租界周辺で起きた日中両軍の軍事衝突。
日本にとっては、日露戦争以来の大激戦となった。

そして欧米列強が多くの利権を持つ上海での戦闘なので、欧米列強の対日不信が一気に高まる事になる。
満州事変から世界の目を反らすための関東軍の謀略と言われるが、もしそうなら起こさなかった方が、結果を見る限りは正解だったんじゃないかと思えてしまう。

なお、念のため書かせて頂きますが、作中での軍閥の動機の話を、真に受けたりしないで下さい。半分以上はネタです。

ただ上海を攻めた将軍が、最初に上海租界の列強に給料寄越せと要求し、上海租界の列強はその将軍が上海を手に入れようとしたと判断している。

前にもどる

目次

先に進む