■ビバ、インディペンデンス

■大東国の独立「武士の時代の幕開け」

東国≠日本国時代(12世紀〜)

・西暦1000年頃(概要)

地球全体が温暖期に入り、日本全体、特に日本の北部地域で農業が盛んとなった。
ヨーロッパでも農業生産量と人口、そして経済力と各国の経済力が拡大。これが「十字軍遠征」の遠因となった。

この頃までに大和朝廷は奈良時代以前の律令制の基本だった人別支配体制を改め、 土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換。
また、このころから荘園制下の土地開発と農法開発により、「いつつのたなつもの」と呼ばれる米・小麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)の栽培が全国に広がる。

旧大東州では、広大な平地に生い茂っていた原生林(主に落葉樹)の伐採と開拓が徐々に進み、荘園へと姿を変えていく。平坦な地形が続くため、開拓は日本列島よりもずっと容易だった。しかし日本列島よりも大きな熊、狼、そして剣歯猫に苦労する事となる。
隠鼠人が絶滅したのはこの頃である。 絶滅しても、隠鼠人が着手していたトナカイ放牧などの家畜の飼育技術は古大東人に伝播していた。
また猪を飼う習慣もそのまま維持された。

なお、西日本から大東島もたらされる各種技術と鉄器が農地を拡大していた。鉄器の供給を制御する事で、大東の統治は比較的安定。
しかし大東島は、日本人達が知る気象条件と少し違う点がある。
旧大東州においては降水量(降雪量)が日本列島より少なく、季節による河川水落差が大きくなる。
更に台風もほとんど上陸しないため、全体的に水不足となる。よって、無数のため池を用いた灌漑農業が発展した。
また、保水のため森林資源も一部が人の手により保全される風土が形成されるようになった。

古墳時代には数えるほどしか古墳が造られなかった旧大東州だったが、土木技術に関しては比較的古くから本州からの伝達があったと考えられる。大規模なため池や非常に灌漑用水路が発展。大和朝廷最初の拠点でもある征東府(現:大坂)付近には、11世紀ごろに建設された城堀と呼ばれる巨大ため池の一部が残存している。アンコール遺跡群の水利施設と同規模を誇る。大坂、和良湖の施設は城郭と共に現在世界遺産にも認定されている。また平坦な地形、広大な地形が多いため、その後灌漑用水路を利用する形で、運河と陸内水運の発展が見られるようになる

この頃、都(首都)の平安京は最盛時20万人にまで人口が拡大し、世界最古の長編小説(紫式部の「源氏物語」)など優れた文化が開花した。この頃から本州・九州・四国・有州などユーラシア大陸沿いの列島を西日本列島、新旧大東島を東日本列島と呼んだ。大東島からも、奴隷を中心にして京に居住するようになる

この頃から本州・九州・四国・有州などユーラシア大陸沿いの列島を西日本列島、新旧大東島を東日本列島と呼んだ。


・1004年
遼(契丹)と北宋は盟約を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。

・1019年
女真族が北部九州に来襲。小規模だったため、朝廷に与えた影響は軽微。

・1050年
古大東人と蝦夷の部族はこのころ連合し、日本におけるかつての邪馬台国レベルの地域国家を形成していた。
これを”大東国”と呼んだ。もしくは、13世紀に成立する日本系大東国と区別し、”原大東国”、”第一次大東国”などの名称もある。
警戒を強めた征東府は『境東府』を設置。多数の人員を動員して、西日本列島では不可能な巨大な城塞都市の建設を開始。境東府から各地に伸びる街道も整備される


このころ日本列島では、奥州藤原氏の祖先が陸奥に移住。
数十年後、出羽国の先住民系の豪族安倍氏、清原氏が反乱を起こし、奥州藤原氏が鎮圧にあたって武功を挙げた。
奥州藤原氏は朝廷や藤原摂関家に砂金や馬など(時には交易で手に入れた剣歯猫も)の献上品をたっぷりと送り、中央から来る国司も拒まず受け入れて関係改善に努めた。やがて実質的に奥州は藤原氏の領地のようになった。
奥州藤原氏は十三湊大陸貿易と呼ばれる環日本海貿易によって、北宋や契丹などとの独自の大陸交易を行い富を蓄えた。
契丹はタダで北宋から財貨を得ていたため、大陸交易においては格安で北宋製品を入手できる良い客であった。日本からは砂金や刀、海産物が輸出された。マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏の金輸出によるものとの説もある。

院政の開始。
大和朝廷官僚機構の肥大化がみられたが、官人世襲化は技能伝達・蓄積を容易にしたし、悪いことばかりではなかった。


・西暦1100年
9世紀に日本の侵略が落ち着いて以後も、旧大東州と新大東州の境目となる「二者陸繋」近辺での小競り合いが慢性的に続いていた。
大東国側は陸繋すぐ東側の山岳地帯を絶対防衛線とし、九州博多の太宰府に相当する“境東府”を建設。強固な城壁を持つ要塞を置いて、「経済的」な防衛に当たった。
二者山脈(実際は山脈というより高地だが)における古大東人や蝦夷の山岳防御は、弓兵(弓矢)と戦虎(剣歯猫)を連携させた大東国側が優勢であった。平地では、農業生産力に優れ人口が多い日本が遥かに優勢であった。
大抵は防御の立場だった大東国だが、部族間の融和期などは日本に逆侵攻を行って、朝廷側の優れた文物や技術を奪取、技術力や国力を底上げした。
新大東州では、島の北端まで古大東人による開拓が見られ、一部は千島列島や北千島半島にまで進出し、13世紀中ごろのものと思しき遺跡も現地で確認されている。
更に古大東人の和渡(わかど)氏などは大陸北方に独自の交易船を差し向け、日本以外との交流を画策した。これを察知した日本側は津軽海峡には海上封鎖のための見張り台を建設、後には奥州藤原氏が水軍を置いた。
大東国の交易船は、未だ蝦夷系氏族が勢力を持つ宗谷海峡経由で大陸との交易を図った。
朝廷は征東府からの報告でこの事実を知り、胆振大宰(現:有守)に北方防備の強化を命じた。
一方、胆振大宰に就いていた宇曽利氏も日本海側の”オタ・オル・ナイ”(砂浜の中の川の意。後の小樽)を貿易拠点に北宋や契丹、粛慎と交易していた。大東国には奴婢・剣歯猫や魚の干物以外には大した輸出品もなく、競合しなかったため宇曽利氏は放置していたが、朝廷から命じられては取り締まる他ない。

・1111年
蝦夷系氏族が反乱を起こし、鎮圧には10年の時間を要した(胆振十年の役)。
この反乱を経て、それまで”蝦夷”、”胆振”と呼ばれていた西日本列島北端の島を、和人の所有地という意味を強める為に12世紀末からは”有守(アリス)”と呼ぶようになった。

大東国では12世紀を通じて日本という巨大な敵に対抗し、独自の封建制度が短期間で急速に進歩した。
蝦夷でも農耕文化や中央集権化に適応できた部族は古大東人を戦友として遇し、民族の融合が進んだ。
この民族融合は、1000年以上前に西日本列島にみられたのと同じものであった。

・1123年
金の建国者太祖崩御。女真族はそれまで遼に真珠やテンの毛皮などを安く買い叩かれる田舎者だったが、太祖によって、遼は滅亡寸前にまで衰退していた。

・1125年
遼滅亡。

・1156年
日本、「保元の乱」。日本の中央政治において武士が台頭

・1159年
「大東前八年の役」
天皇と上皇の対立などにうつつを抜かしていた朝廷に、大東国が征東府に入寇したとの報が来たことが発端とされる。
だが原因となったのは、距離の遠さもあって独自性を強めていた征東府の独断による攻勢であった。
京の朝廷は、現有の征東府戦力に加えて関東の源氏系武士を動員しようとした。だが権力を強めつつあった平清盛はこれに反発し、後白河天皇の側近である信西と図って平氏に大東征討を下命させた。
これまでに旧大東州には、既に公家出の多田野氏という武士一族が成長していた。平清盛は彼らを天皇の権威をもって従わせ、1160年に大反攻を実施した。
関東の坂東八平氏も1163年頃から軍船を伴って参戦している。
「大東前八年の役」は、規模の大きさから関東・東海・伊勢の諸平氏勢力の総力を挙げた戦いとなった。
戦争の結果、豊かな新大東島の南半分を征服れた大東国は古大東系氏族の離反が相次ぎ、ほぼ抗戦力を失った。
一方で旧大東州は、戦争特需や日本からの大量の人と物の流れによって戦闘特需に沸き、また大きく発展する事になる。

・1160年
要塞都市”北府”、”央都”の建設。建設には征服したばかりの新大東州南部の大東人が大量動員された。
同様の手法により、征東府城壁の大規模化も実施される。

この頃から平氏一門の台頭が顕著化。
勝利により平氏一門の台頭。平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。
境東府には多田野氏が、征東府には文芸に優れた平経盛が配された。また後の名門高埜氏、田村氏などが台頭。駒城氏も『央都』の建設と守護で新大東州北部入りを果たす
平経盛とその直系の一族は、「野蛮」とされていた現地から大いに歓迎、敬われて繁栄し、「大東平氏」の始祖となる。

・1162年
モンゴル高原に散在する遊牧民族の一つ、ボルジギン氏族にテムジンが誕生する。

・1163年
後白河天皇は守仁親王に譲位し、二条天皇が誕生した。
後白河院政派と二条親政派の対立。

そのころ、武蔵・陸奥を知行国とする藤原信頼らは源義朝との関係も深く、平氏の台頭に不安を感じていた。
摂関家は保元の乱によって知行国を喪失した上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義が処刑されたことで各地の荘園で紛争が
激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。
劣勢の摂関家と源氏系武士が組んで後白河院政派を支援、源重成・源光基・源季実なども院政派に与し、二条新政派を攻撃した。京都は内戦状態となった。
清盛は伊勢で京都の異変を知り、近隣の兵を集めて義朝と合戦。結果、平氏が勝利した。多くの軍事貴族が戦乱で淘汰され、平氏は朝廷の軍事・警察権も事実上掌握した。
こうして、初期的な武家政権ともいうべき平氏政権が形成されてゆく。

・1166年
平清盛、内大臣へ昇進。

・1167年
平清盛、太政大臣へ昇進。武士としての初めて朝廷の官位を極めた事になる。

・1167年
同年、「大東後三年の役」勃発。大東国の滅亡。
この事件を「日本統一の完成」と呼ぶこともある。
強大な軍事力を有する平氏政権は更なる拡大を求め、その場を大東島で抵抗を続ける国内唯一の「夷敵」である新大東州に選んだのが直接的な原因。
征東軍の総大将が清盛の子(嫡男)の重盛であったのは、当然ながら重盛に日本統一の栄誉を担わせるためであったと考えられている。
清盛自身は出家し、日宋貿易に傾注しはじめた。戦乱が前後に分けられているのも平氏台頭のため。
平清盛は日宋貿易・大東貿易に深く関与するようになり、富を蓄えた。この後の平氏専横の原因になった。
清盛は兵庫の港(福原)を整備するなどインフラ建設にも熱心に取組んだ。日本からは砂金や剣などを中心に輸出している。
平氏は旧大東島の2国と新大東州の国司となり、計10国を治める巨大勢力になっていた。
この時期からしばらく、西日本列島よりもずっと大きな面積を持つ大東島のほぼ全てが形式上平氏の支配下になる。
そしてこの戦乱とその後の歴史の経緯から、平清盛は日本と大東の双方を支配した最初で最後の武士と言われる。

・1170年
新旧大東島全体で西日本列島の総人口を超え、推定1000万人にまで成長していた。征東府のある坂上(現大坂)は人口10万人に達した。
大坂の街並みは、この頃現在進行形で建設の進んでいた分厚く高い城壁の為、平安京よりは大陸の長安、開封などに似ていた。
日本列島全体での総人口は推定1700万人に達し、世界最大級の国家の一つになっていた。しかし海で大きく二つの地域に分離しているため、全ての力を一つに集める力に乏しかった。
だが、地球規模の温暖化に伴う成長にも陰りが見え始めていた。この時代の後、人口成長はゆるやかとなり、土地改良と新規開拓が徐々に進むにつれ、人口も漸増する安定成長期になった。
同年、奥州藤原氏の藤原秀衡が鎮守府将軍となる。奥州から有守で勢力を拡大。拠点となる平泉の街も栄え、人口10万人に達したと言われる。
このため、京、大坂、平泉を「源平三府」と呼んだりする事もある。

・1179年
後白河法皇の院政が平清盛によって強制終了。法皇を幽閉して政治の実権を握った清盛は更に権勢を拡大。平氏の知行国は32ヶ国にもなり、日本の半分を支配する大勢力に成長した。だが、敵もまた大幅に増えた。

・1180年
養和の飢饉。
異常少雨による全国的な大飢饉。大東島も例外ではなく、大混乱に見舞われた。

後白河天皇に繋がる傍流皇族以仁親王が平家打倒の宣下「以仁王の令旨」を下し、各地で源平の紛争が勃発。源氏の流れを汲む源義仲もそうした源氏一族の一人であり、平家打倒に大功を成した。

「富士川の戦い」で源氏に平氏惨敗。水鳥の羽立つ音に驚いて逃げたため、戦闘にすらならなかったと記録されている

 一口メモ:以仁王---------------------------
1151年生まれの後白河天皇の第三皇子。皇族。幼い時分に仏門に入るが12歳で還俗。英才の誉れも高い青年に育った。
英才過ぎたからか父後白河法皇とも疎遠であったといわれ、天皇の皇子でありながら親王宣下も受けられなかった。
1179年の平清盛のクーデターにより以仁王も領地を没収され、収入を失った。
以仁王は源頼政の勧めに従い「以仁王の令旨」を出し、全国の源氏に平家打倒の挙兵を促した。令旨を受けて源頼朝や源義仲など各国の源氏が挙兵、日本は源平合戦の時代に突入することになる。

・1181年
平清盛没。以後、平氏の没落早まる

・1183年
源義仲、入京。平氏は西国に落ち延びる

・1184年
源義仲は皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となり、以仁親王ともども源義経軍に追い回され、大東島に逃れた。

・1185年
「壇ノ浦の戦い」。西日本列島における平氏滅亡。大東平氏は大東国内の安定で精一杯であった。
逆に源氏は、大東島への足がかりがまったく存在しないため大東平氏討伐ができず。さらにその後、西日本で生き残った平氏の一部が大東に亡命。

源頼朝と源義経が不仲となる。
源義仲と源義経が結び、謀反を起こす。

大東島にて以仁天皇が即位し征東国に親政を敷く。新たに征東府の都を『大坂』と改名。都市を包み込む大規模な城壁も完成。
日本が再び二つの中央政府を持つことになる(※日本が「統一」されていたのは、1167年から1185年の僅か18年の期間)。
以仁天皇と奥州藤原氏鎮守府将軍藤原秀衡が結び、鎌倉に対抗。旧大東島の平経盛を中心とする平氏勢力も取り込み、容易には滅ぼせない勢力に成長していた。源義仲と源義経も支援。
なお、以後大東平氏は大東島の皇族への道を進む

源氏、守護制度発足。鎌倉を拠点として、武士の政権としての地盤固めを行う

・1187年
源義経は征朝大将軍に任じられ、出羽国・陸奥にて鎌倉方と合戦(奥州諸合戦〜1192年)。小規模な戦闘が頻発するが決着は付かず
同年、藤原秀衡没。以後政治バランスが大きく変化

・1188年
東国武士の力を背景に朝廷に対して強硬な態度を示しつつあった源頼朝に、京都の朝廷は警戒していた。
しかし大東島の反逆者に対抗するために、後白河法皇は源頼朝を征夷大将軍に任じ、ここに「鎌倉幕府」が誕生。
以後日本は、「鎌倉時代」に移行。これ以後の時代が武士の時代とされる。

以仁天皇は「大東国」の建国を宣言。
大東島にて京とは全く別の朝廷を開かれる。
鎌倉幕府が朝廷から半ば独立した武家政権であったのに対し、大東国は朝廷の支配力が強い平安時代中期以前の統治体制を維持していた。大東では歴史が浅いためか荘園公領制における貴族社会内部の紛争が比較的弱く、大規模な武力を用いるまでの対立が起こらなかったため、武士の台頭が遅れていたのが原因。
大東国では、以仁天皇や朝廷が征東府・境東府などの日本由来の武家を取り込んで自国の防衛に活用した。

・1192年
後白河法王が崩御。

宇都宮城にて頼朝・義経が余人の同席抜きで会談、鎌倉幕府と大東国が和平。

・1193年
源義経が勝手に和平を結んだとして、奥州藤原氏に処刑される。

・1194年
家臣の造反により藤原泰衡が殺され、奥州藤原氏滅亡。


・1203年
北条時政が執権となる。
源頼朝から3代を経ただけで、鎌倉幕府の実権は北条氏が握るようになった。頼朝の妻・政子が北条氏の出であり、北条氏が台頭する上でこの関係は役に立っただろう。
北条氏は時政・義時・泰時と、3代にわたり優秀な人材を輩出した。源の家系が断絶した後、鎌倉幕府が崩壊せずに済んだのは、一族一門の繁栄ばかりを願う有力御家人達の中で北条氏実権を握っていたおかげだった。
源実朝が北条氏のサポートを受けていなければ、初めての幕府は朝廷に実権を返還していたかもしれない。そうなれば、朝廷や公家に頤使され官職を与えられる弱い立場に、武家は退行していただろう。

・1206年
モンゴル帝国成立。
チンギス=ハーンはクリルタイを開き、全てのモンゴル民族の長となった。

大東原初年代記によると、この頃に大東武士団の慣例をもとに新たな行政体系を作り上げていった。
大坂に大東国真正朝廷を置き、天皇と公卿(貴族階級)から成る朝廷会議からの管符と呼ばれる命令によって知行国の各領地が管理された。
知行国の防衛には、貴族に代わって荘園管理を行う知行地頭の率いる武士が利用された。このように、日本とは違い未だに公家政権ともいうべき政体であった。
貴族の3割程度は公家とは名ばかりの豪族のような存在であったため大東朝廷と武士の距離は日本の場合と比べて近かったと言える。やがて、日本との対立を通じて貴族の武士化の流れが進展する。
大東平氏は、以仁天皇一族との姻戚関係により完全に皇族、王族化。

 一口メモ:大東国の宗教政策-------------------------------
宗教面では、大東国の国教は仏教であった。だが、日本において仏教と神道が並存していたのとは異なり、大東国では民衆レベルでの宗教は神道であった。よって、仏教寺院は大東国の玄関口である大阪近辺(及び、後の東京近辺)に若干数分布しているだけである。
仏教は大陸の歴代政権と付き合う上で重要な外交チャンネルであったし、僧は知識人=情報源であった。つまり、外交儀礼上、国策として保護されていたに過ぎない。
古大東人の影響を強く受けた大東国の神道は、のちの日本における神社神道に近く、大東人は神道を宗教だとも捉えていなかった。それくらい自然に共同体に根付いていた。
明確な教義や教典がなく、万物に神が宿り、人間でもなんでも直ぐに神に祭り上げられる位に神と人の間は近かった。国家鎮護や魂の救済をするつもりも無いのが神道だった。
当時の森林に覆われた大東国にとっては、自然信仰は当たり前のことだったのだと考えられている。だからこそ、政府が国教を仏教にしても別段問題にもならなかった。なにしろ神道は「宗教ではない」からだ。
この世紀の末に元寇が日本に打撃をもたらしたが、重大な局面において日本の仏教は何の国家鎮護の役割も果たさず祈祷は無駄だった。多くの大東人は「ほれ、みたことか」と、思ったことだろう。
この神道というものは、考えると恐るべき宗教である。地球上の主だった宗教に比べ原始宗教の色合いが濃く(仏教は原始宗教をルーツに持たない)、他の宗教に見られる身分制秩序の維持や道徳の公教育装置としての機能が歴代の支配者に利用されてもいない。仏法は”信じる”ものだったのかもしれないが、神道は”敬われる”ものだった。決まった改宗手続き・運動もなく、大東人になる絶対的要素でもない。
このような宗教の形態は、主要国のなかで大東国と日本にしか見られない特異なものだった。
そして逆の視点から見れば、大東島は「宗教」を必要としないほど自然環境が恵まれ、また人種間の対立がなかった事を示している。

・1211年
大東国では、以仁天皇がついに日本の皇室との統合をあきらめ、退位+改元。

・1221年
日本、「承久の乱」。
後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。その結果、鎌倉幕府及び日本での武士の権力は盤石となる。
朝廷監視のために六波羅探題が置かれた。

・1229年
徐々に地球規模の寒冷化がおきる。
寛喜の飢饉。
養和の飢饉以後戦乱が絶えず疲弊していたところに天候不順が重なり、数百万人が餓死。比較的飢饉の影響が少なかった大東国に日本から難民が押し寄せた(10年で5万人前後)。この事から、当時の東日本海の海運、日本での造船技術の発展を見ることができる。
鎌倉幕府は最初は取り締まろうとしたが、必要な経費に事欠いたため、やがて取り締まり自体が有名無実となった。

・1231年
モンゴル帝国が高麗侵略を開始。

・1232年
鎌倉幕府で「御成敗式目」成立。
51ヶ条から成る日本初の武家法。北条氏に正当な日本統治の権限がないために作られた法律であった。それまでは古くから伝わる律令があったが、初めての武家政権を維持するには全く不十分だった。
武家政権が最初に手に入れた、この御成敗式目という法律に、それまで殆ど虐げられるばかりだった一般人民にも光が当てられていたことは、幸運だった。そこには東洋世界では珍しい、人民の保護規定が(一応は)盛り込まれていた。
御成敗式目はその後の武家政権においても規範とされた。

幕府のシステムも急速に整った。
執権 1203年
連署 1224年
評定衆 1225年
守護・地頭 1185年
鎮西探題 1185年。主に西国の監視と宗・朝鮮など外国の監視。
鎮東探題 1185年。主に奥州・有守州の監視と大東国の監視。
六波羅探題 1221年。主に朝廷の監視。
などの役所が整備され、北条氏が幕府を切り盛りしていった。

・1234年
モンゴルにより金が滅ぼされる。

・1235年
モンゴル帝国の首都カラコルム建設。

・1246年
後嵯峨天皇の退位後、日本天皇家は大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく両統迭立時代がはじまる。

・1257年
鎌倉で大地震。
日蓮の布教活動により、中下層武士層に法華経が広まる。鎌倉幕府は浄土宗を正統としたため、日蓮は迫害される。

・1259年
フビライ=ハーンがモンゴル帝国の皇帝となる。
遊牧民族であるモンゴル人は、戦争によって領土を広げようという意思を持たなかった。労働者や美しい女を奪い奴隷とし、家畜を奪い、役に立たない人間は殺して引き上げた。
しかし、フビライの頃からモンゴルの戦争様式にも変化が現れた。
高麗をモンゴルに服属させたのも、属国化による支配が合理的だという結論に、フビライが至った結果だった。

日蓮は「立正安国論」を著し、七難を予言した。七難の一つに、「他国侵逼難」が挙げられていた。

・1261年
大東国で改元実施。
日本の平安時代以降、辛酉・甲子の年には社会の惑乱を防ぐために大抵改元が行われたが、簡素さを徳とする大東皇室は1261年以降は天皇の皇位の継承があった場合毎に改元する一世一元の制に改めた。

・1266年
モンゴルから日本への通使が訪れる。

・1268年
大東国からモンゴルに使節が出発。
大東国はモンゴルと友好関係を結び、大東真正朝廷が日本の正統な政権と認めさせるために、フビライ=ハーンのもとを訪れようとした。
だが、使節は済州島にて高麗官吏に捕らえられ大宰府に送られる。
以後も、大東国からの使者はなぜか高麗に次々と捕らえられ、日本に引き渡された。しかも高麗はどういう功名心に駆られたものか、大東国が日本と盛んに使者のやり取りをしている旨をモンゴルに報告。フビライは大いに警戒した。
この事件以後、大東国は朝鮮半島国家及び朝鮮民族を酷く嫌うようになる。(※逸話が事細かに残され、さらに語り伝えられた。)

・1271年
元帝国成立。

鎌倉幕府は異国警護番役を設置し元・高麗・大東を警戒。

・1272年
高麗の忠烈王はフビライ=ハンに日本侵略を提言。

・1274年
元による第一次日本遠征開始。900隻、3万名余りによる北九州侵攻。
鎌倉幕府は、鎮西探題の大友頼泰に命じて防備を命じた。
この時の戦闘は、元側が外交として日本を脅す程度の攻撃しかしなかったため、実質的には一日しか戦闘は行われず

・1279年
元により南宋が滅ぼされる。

・1280年
高麗は日本遠征のために忠烈王自ら長官となり征東行省設立。

・1281年
「弘安の役」。元による第二次日本遠征。(詳しくは()参照)
二つの進路から合計4400隻、14万名余りによる北九州侵攻を実施。4月頃より戦闘開始。
鎌倉軍は4万名だったが、博多湾を中心に建設された元寇防塁を活用し優勢に戦う。元軍は北九州に上陸。江南軍は九州に入植するつもりで農器具持参であった。
激しい戦いになったため、双方凄惨な殺戮戦となる。
7月に襲来した暴風雨で侵攻船団が大打撃。更に上陸後も秋の収穫期前だったために食糧不足が重なり、元軍は最終的に壊滅。生還者は出征時の1割以下という。元・高麗人は捕虜を取らず殺害、南宋人は一部を助命したに留まる。両軍の死者の数は、戦闘要員だけで16万人以上。主に日本側の一般被害を合計すると30万人を越えると言われる。
以後元は陳朝大越国・チャンパへの干渉を行ったため三度目を企図した日本遠征は行えず

この頃、鎌倉幕府の御家人制が崩壊の危機に。守護職の増加傾向が止まらず。
鎌倉幕府は元寇撃退の恩賞を与えることが出来ないため、代替手段として大東への遠征を企図。しかし資金不足で実現せず

大東国は、朝廷統一の千載一遇の機会を逃したことで、上下大坂派に分裂、内紛に発展した。

・1294年
元は4つの領域国家のゆるやかな連邦体制に移行した

・1295年
大東国では、内紛を経て貴族の綱紀粛正と階級再編成が進む。
大東では武家と公家の区別をなくし、当時の日本で見られたような貴族は京に在住し、地方の荘園収入が請負代官によって京進されるのを待つという受動的かつ怠惰な領地管理手法を改め、貴族階級各人が荘園を管理するようにした。
この貴族制度を公家在地領主制という。朝廷は中央政府になり、貴族は地方政府となった。
日本の幕府よりも一挙に中央集権化が進んだように見えるが、朝廷が手に入れるのは土地収入のごく一部でしかなかった。 ※身分制度の詳細については( こちら )へ。

・1297年
蒙古合戦でも活躍した村上水軍が中心となり大陸に渡り、私貿易の商談をもちかけ、纏まれば貿易を行い、破談となれば即座に暴力に訴えた。その場合、倭寇と表現された。これを歴史上では「前期和冦」と呼ぶ。
こうした村上水軍による貿易船は八幡大菩薩の幟を立てていたため、八幡船と呼ばれた。

鎌倉幕府、「永仁の徳政令」。

この頃、西日本で貨幣経済が浸透。大東ではまだ貨幣の浸透は進まず。


・1301年
元の征東行省廃止。日本征服の試みが終わる。

この頃から元と和船の貿易が増大。大東の船も、琉球経由で元に赴くようになる

・1306年
このころから、西日本列島の大和・山城を中心に「悪党」の跳梁が目立ち始める。

・1307年
「大仁日寇」(第一次日本・大東戦争。日本側名称:徳治外征)
北条師時は、地方での幕府影響力低下を抑えるため、悪党に代表される武装集団のガス抜きをすることにした。具体的には、大東国への外征である。
同時に、まともに納税もしない御家人を粛清し、彼らの勢力を削ぐ狙いもあった。朝廷も常に幕府に反抗的だったため、鎌倉幕府の威光を知らしめす必要があった。

東海から関東の御家人が船を建造し、兵糧は奥州の安東氏からの寄進で賄った。新大東島の古大東人の一部族と通じた幕府は新大東島に塩釜・胆振から兵を大東島のアヅカと呼ばれる地域に輸送した。
一種の海賊行為に近い奇襲上陸戦を繰り返す日本軍により、旧大東島沿岸は荒れ果てた。この教訓が、大東に海岸防衛の重要性と、都市城塞の重要性を認識させる。以後各地で大規模な都市型城塞の建設が進む


・1333年
大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発す。

・1334年
後醍醐天皇による「建武の新政」開始。

・1335年
北条時行が鎌倉幕府復興のため挙兵、中先代の乱が勃発。

・1336年
日本天皇家が分裂し、「南北朝時代」がはじまる。この中で、大東島の逆賊(=天皇家)が荷担するのではないかと警戒される。しかし大東国は、特に大きなリアクションは起こさず。

「室町幕府」が成立。
武家による幕府は京都に本拠を移した。

・1349年
鎌倉府が創設され、関東十ヶ国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)。鎌倉府は代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。
また、鎌倉時代に設置された有守管領職はこの頃安東氏に独占されていたが、鎌倉府ほど中央の意向に反することはなかった。

南北朝時代の戦乱は、蒙古襲来以降改良を続けていた日本騎兵の戦術に変化をもたらしていた。
一騎打ち中心の「やーやー我こそは」的な戦争から歩兵中心の集団戦闘に移行し、騎兵もそれ以前とは異なる運用がされるようになっていった。
戦闘に際しては騎馬武者も下馬して戦う場合が多くなった。大東騎兵の勇猛さが知られるようになると、対大東戦の備えとして機動力を生かした集団戦法と組織的な弓攻撃、そして迅速な後退、という戦法を確立した。
従来は騎馬武者1人に刀・長槍・薙刀・弓矢など雑多な武器を持った歩兵が5人、という混成編成であったがこれでは騎馬の優位点である移動力が発揮できない。かつての虚仮脅しドクトリンから決別し、騎兵と歩兵の分離に先に成功していたのは大東騎兵の方であった。

・1351年
元にて「紅巾の乱」。

・1367年
西日本、南北朝合一。
足利家将軍権力は強大化。日本を二分した戦乱は終焉した。
鎌倉幕府に比べれば、室町幕府は地方分権の性質が強い政府であった。

・1368年
明帝国建国。

日本-琉球間の中継貿易が盛んになったが、これは対明朝貢貿易に柵封体系に入らず参加するための方策であった。大東は平安時代の日本のように直接的な対明貿易を推進。
日本・大東と朝鮮の貿易は、日本の塩浦・富山浦・乃而浦に限定されたが対等だった。

倭寇は初期に沈静化した。同時期に海軍力の増強が日本においてみられた。

・1372年
「二十年戦争」(第二次日本・大東戦争)勃発。(詳しくは()参照)

・1392年
李氏朝鮮建国。
室町幕府は長崎に軍港を整備し、対馬の防衛を強化。

「二十年戦争」休戦。

同年、室町幕府は鎌倉府による関東擾乱を反逆と断じ、関東管領上杉氏に命じて鎌倉府を打ち滅ぼすよう命じる(関東擾乱)。

・1397年
鎌倉府に代わり、関東・奥羽は関東管領上杉氏が幕府の出先機関として機能するようになる。

かつての元寇では、北九州に防塁を築いて水際での防御を試みた。
しかし、大東国との戦争においては守るべき海岸線が東海沿岸全域に広がっており、防塁建設は経費的にも当時用いることができた土木技術的にも水際防御は難しかった。
それよりも、航洋型の海軍を建設し、大東国の輸送船を撃退することで西日本列島への上陸を阻むイギリスが採ったのと同じ防衛戦略を本格的に採ることになる。
20年戦争の結果、水軍の大幅な強化がみられた大東国は、日本の水軍強化を把握していた。大東国の輸送船(つまりは、外洋航海ができる大型商船)の安全を確保できる水軍、つまりは日本と同じ航洋型の海軍建設を決定した。

・1405年
明帝国の永楽帝の命により、鄭和が第1次航海へと出る。船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りという壮大な規模だった。

・1407年
鄭和船団カリカットに到達。帰国後すぐに第2次航海に出発。2度目のカリカット航海。

・1409年
鄭和第3次航海に出発。
今度は琉球・大東(南都・大坂)に航海。更に東進するために大東国で物資を買いつけ。更に船体修理のため、大量の木材・膠などが需要された。さしずめ鄭和景気とも言うべき好景気になる。
大東国が明帝国に何度も自分たちとその先の事について伝えた結果だった。

・1410年
鄭和艦隊の分隊が現在の中道島発見。未確認ながら、羽合諸島まで到達したとの見解もある。

・1411年
鄭和帰国。

・1413年

鄭和第4次航海。ペルシャ湾のホルムズやアラビア半島南のアデンなどに到達

・1417年
鄭和第5次航海。アフリカ大陸東岸のマリンディにまで到達。このとき、大東島と日本がそれぞれ2隻の船を提供している。
はじめて日本人・大東人がインド亜大陸の地を踏む。

1421年
鄭和第6回航海。朝貢にやってきていた各国の使節を送るためのものである。分隊は大東島まで外交使節を送り届けている。
はじめて大東人がアフリカの地を踏む。

1429年
琉球王室の成立。

新大東島の開発も進み、新大東島全島が大東国の支配下にはいった。日本との和平、国内の統一に伴い、歴史上のどの国家も安定を獲得した後に経験した通底的課題……政府及び行政システムにおける事大主義と行政コストの際限ない上昇、つまり腐敗がはじまった。

1431年
鄭和第7回航海。メッカまで到達。

・1450年頃
大東島で見られた計画的保全林は、15世紀頃から西日本列島でも見られるようになった。西日本列島では、7割が山岳という地形のために、人の手により全面的に森林が失われるという事態が起こりずらい環境にあったが、大東島は大陸と同じように、意識的に保護しなければ森林が全面的に消滅する恐れがあった。
保護林の概念は11世紀から見られたが、徐々に管理主体が各村落から豪族・地爵へ、というように大規模化していった。15世紀半ばには公爵が保護林を設定するまでになった。こうした森林を”州森”という。基本的に立木を切り倒してはならないが、枝打ち等の管理は必要だった。そのために代々公爵に雇われて森林管理に当った者を”木守”と呼んだ。木守姓の家系は、本来そういったフォレスターだったのだろう。

・1467年
日本「応仁の乱」(〜1477年)勃発。「下克上」の「戦国時代」が到来。
戦国大名の台頭。
農業・工業技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。民衆の力は増大し、各地で土一揆が発生。守護代や国人衆による下克上による騒乱が各地ではじまった。室町幕府の支配体制が生み出した守護代は戦国大名へと成長しつつあった。
守護大名はその領国の土着の武士と主従関係を結び、被官化し、一元支配するようになった。これを守護領国制と言った。

・・・中世の終焉。そして戦国時代を経て近世の始まりへと続く。