ところで、神様というのはどんな存在なのだろうか。
もちろん気の存在であるし、天地の法則も確かに神様の一部ではある。それから絶対的な愛を持っている存在、それも神様である。
朱子学では理気二元論というのを説いている。これは簡単に言えばこういうことである。まず、宇宙は気でできている。その気が、山なら山、川なら川と、しかるべき方向に形を成して、天地万物ができている。その仕組を理(ことわり)という。
つまり、二元説といいうのは、宇宙が「気」と「理」の2つによってできているという考え方だ。しかし神界の実相から言うとこれだけでは不十分である。本当はこれにもうひとつ「意」を加える必要があるのだ。
すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神にも見られるように、神は「意志」を持っておられるのだ。
それで神の絶対なるご意志というものを尊重し、「天にまします我等が父」というように、神が人格化されてくるのである。私も体験上、そうとらえるのが正しいと思っている。
神は、ただ「気」と「理」によって自然現象として存在するだけでなく、「意」をともなった存在なのだ。だからそこに人格を認める必要があるのである。
これを反映したのが神道の先祖崇拝である。
神道では、我々が今あるのは先祖のおかげだし、その先祖はルーツのルーツをたどっていくと神様から出ていると考える。したがって神道では、神様というのはお父さまのような存在であり、お母さまのような存在であるととらえられているのだ。
ということは神人合一というのも、神と人との人格と人格の交流でなくてはならない。神様が降りてきてその人に合体するというのも、確かに神と合一した瞬間ではあるのだけれども、それがすべてではない。本当の神人合一とは、あくまで人格と人格とを交流させることなのである。
では神に人格があるなら、私たちはどのように交流すればよいのだろうか。
信仰心は厚いのに、神を身近に感じたことがないという人がいる。そういう人は、神を崇めるあまり、神とはまるではるか遠くにあって手が届かない存在だと思っているのである。神様と親しくするなど恐れ多いというわけだ。
しかし、そうして神との間に距離を作ってしまうことを、神様自身は寂しがっておられる。ではどんな接し方をするのがよいのだろう。先ほど、神は父であり母であると言ったが、ならば私たちは子供である。いや、むしろ赤ん坊と言ったほうがよいかもしれない。私たちは赤ん坊が自分の親を信頼し、安心して身をゆだねるようなつもりで、神に心を向ければよいのである。
そのためにはやはり神様と慣れ親しむことである。本当の父のように母のように、礼節は尽くしながらも決して他人行儀になることなく、その存在を身近に感じて人格と人格の触れ合いを高めていく。そういう感覚が大切なのである。
『心の金縛りがとける本』 深見東州 1999年 たちばな出版
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