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わが心の王国を支配せよ(U)

パスカルはこう言っている。「言葉の力によって自分自身を愚か者と言うならば、そしてそれを信ずるならば、彼は愚者となるであろう」と。その反対も真理であるのである。多くの人々は一度犯した過ちにいつまでも心を低回せしめて、かえって心のなかに思い浮かべる言葉の力によって、自分自身のその欠点から脱却することができないのである。心に繰り返し念じ、想い、描かれたところの欠点は深く潜在意識に滲みこんで、次第に抜き難きものとなってくるのである。

ある機会に目上の者から「君は馬鹿だ」と叱られる。すると、「自分は馬鹿だ、馬鹿だ」と考える。そしてその馬鹿な考えから脱出することができないために、彼はますます馬鹿になり、その次にはなおいっそうヘマなことをするのである。我々は心に「愚か」を描きながら「賢者」となることはできないのである。東に向いて走りながら西に向かっていくことができないのと同じである。「自分の欠点を常に考えながらその欠点から脱却することはできないのである。反省してみて自分の欠点がどこにあるかを知ることは必要である。しかし、一度欠点を見出したならばその反対の事柄を強く思念することによって、その欠点から脱却することができるのである。

パスカルは「人間の尊厳は物を考える力にある。正しく物を考えることは彼のあらゆる義務である」と言っているのである。悪いことを考えれば、悪いことが出てくるのである。我々が正しく物を考えることを知るまでは人間は決して幸福になることはできないのである。我々は人間の高貴さを考え、人間の尊厳を考え、人間の幸福を考え、人間の偉大さを考えなければならないのである。それにもかかわらず、多くの人たちは人間を地球に生じた黴(かび)の如く考え、弱き葦の如く考え、不幸と病気に定められているが如く考え、自分自身の想念によってそのような惨めな状態に墜落しているのである。

我々はこの惨憺たる墜落から立ち上がらなければならないのである。まず汝の想念に人間の偉大さを描け。人間の高貴さを描け。人間が神の子にしていかなる場合にも衰えてしまうことのない偉大なる力と健康を持っているということを信ぜよ。諸君の人生におけるあらゆる偉大なる可能性を阻むものは諸君の不健康である。しかもその不健康は不健康な想念から来たるのである。我々人間の全身の細胞およびあらゆる器官は我々の想念の中にあるところのものによって著しく影響を受けるのである。諸君の想念の中にいかなるものがあるか自ら振り返ってみることによって、自分の中に何ものがひそんでいるかをまず見出せ。

愉快な、楽天的な、平和な、深切な、愛他的な、調和した感情が諸君の心の中にあるならば、それは健康の因(もと)であり、同時にそれは諸君の成功の基(もと)でもあるのである。もし我々の想念感情が低き世界の何ものかにとらわれて、常にいらいらし、くよくよして悩んでいるならば、諸君の健康は低いものとなるであろう。利己主義くらい自分の健康を害するものはないのである。利己主義者にとっては自分以外の全ての人々は自分にとっての敵となるのであるから、常に自分を守るべく警戒していなければならないのである。かかる心の状態においては、人間と人間との間の愛と調和ということは得られないのであって、結局自分のためのみを思う者は自分自身をかえって害しつつあるのである。

誤れる想念を常に持ちつつあるということは常に自分自身を害しつつあるということである。自分自身の武器をもって自分自身を常に害し続けるものは狂人だと言わなければならないのである。しかもこの世にこの種類の人間がいかに多く存在することであろう。我々は狂人になってはならないのである。常に正しき想念を持続して自らの健康と運命を向上せしめることが「神の子」たる人間がこの地上に生まれ出てきた使命である。

我々は誰でも心が暗く腐ってきた時に全体の生活が乱れてきて、世界が真っ暗になり、健康が衰えてくることを知っているのである。我々は体験によってそれを知っているのである。怒りや恐怖や心配やイライラやすべての不調和な感情または想念は肉体のあらゆる機能を不完全にするのである。長期にわたって継続したところの悲しみの想いは胃癌を引き起こし、あるいは神経痛を引き起こすことはすでに多くの人に体験されていることである。利己主義、嫉妬、猜疑等の念が長期にわたって継続される時には慢性の消化器病となり、時として重大なる肝臓の障害を来たすのである。取り越し苦労が始終継続する時には体のある部分に麻痺症を起こすのは、不安に対する恐怖を忘れたい想いが肉体に具象化するのである。自制を失った怒りの爆発は神経系統に著しい影響を与え、時としては脳溢血や震顫(しんせん)麻痺を起こすこともあるのである。始終家族が争いあっている家族においては病人が絶えないのである。争いと不安恐怖は人類の一大強敵と言わなければならないのである。それは全ての人類にあらゆる不幸とあらゆる災厄とあらゆる病気を引き起こすのである。

ともかくいかなる想念感情にせよ、それが不調和なるものなる限りにおいて、肉体に消し難き痕跡を印するのである。一度憤るごとに一つの醜き皺(しわ)が顔に増えると言っても過言ではないのである。それは顔に皺を印するばかりでなく、脳髄の表組織に消し難きレコードを印するのである。かくてそれは永遠にその人の性格としていつまでもつきまとって、機会あるごとに不調和な想念感情を起こしやすくなるのである。それを仏教では業の流転と言っている。我々が何らかの卑しむべき、軽蔑すべき悪しき想念を起こすならば、それは我らの性格の上に印象せられて将来までもその痕跡に纏(まと)われて苦しまなければならないのである。ただ一時の感情の爆発にて事終われりと考えてはならないのである。我々は怒るべきか、忍耐すべきか、あるいは感謝すべきか、一つの同一事物についてもいろいろの心の持ち方があるのである。それによって我々の将来が決定するのである。単に性格が決定するばかりでなく、我々の将来の運命も自分の性格によって決定するのである。

見よ、多くの将来有望なる若き実業家が、あるいは若き会社員が一度怒りを爆発させただけで将来の運命が木っ端微塵に粉砕してしまった実例もずいぶんたくさんあるのである。怒りを爆発させる人は自分自身から幸福を遠ざけつつあるのだと言わなければならないのである。およそ自己の従事している職業が栄えるためには、そこに繁栄の雰囲気が立ちのぼらねばならないのである。もし自分の事務所または店舗から怒りの雰囲気が立ちのぼるならば、怒りは人を排斥する心の波であるから、善き顧客が近づいて来つつあるのを排斥してしまうことになるのである。

我々の性格の中で最も面白くない種類の性格の一つは「他の欠点を見つける性格」である。よるとさわると何か他の欠点を見つけて、それを話の種にしなければならないのである。かくの如き性格の人の所へはいつまでも彼に対して忠実なる協力者は集まって来ないのである。古い深切な部下の者はことごとく離散してしまい、彼に踵(きびす)をかえして悪口を言うようになるのである。それはなぜかといえば、自分自らが彼らの欠点を見つけて悪口を言う性癖をもっているからである。

我々はこのような悪しき精神習慣を克服しなければならないのである。キリストは「汝の敵は汝のうちにあり」と教えたが、自己を克服する者のみが本当の強者なのである。我々は恐れ、悲しみ、すぐ不快になり、人を憎み、恨み、妬み、呪い、すぐ欠点を見て悪口を言い、小さな不幸の兆しを見てすぐ取り越し苦労をし、もうすんでしまったことをいつまでもぐずぐず想いわずらう如き悪しき心の習慣を克服しなければならないのである。我々はこれらの想念感情に敗北してはならないのである。我々はこれらの想念感情の主人公とならなければならないのである。

もし諸君が、以上述べた如き悪しき心の習慣に囚われそうになった時には、一瞬間のうちに心を光明に転ずるように心の訓練をすることが必要なのである。くよくよと同じ観念に引っかかっている限りにおいては、その悪しき影響はいよいよますます増大するのである。不快なことが起こってきたならば、その不快を心に見てはならないのである。よろしく我らは心のうちに次の如く念じるべきである。

「これは本当にそうあるのではないのである。こんな悪しきことは決して神の造り給える世界には存在しないのである。見せかけのこの悪しき状態は、本当はもっと良くなるための前提として現れたにすぎないのである。自分にとって悪いことは決して起こってこないのである。」

こんなふうに災いを転じて光明の契機とするのである。すべての、不幸が現れてくる、という考えを自分の心の中から追い出すことが必要である。あらゆる事物の中から光を見出し、希望を見出し、しかして勇気を奮い起こすのである。光の輝く心の前にはどんな闇も近づいてくることができないのである。心に光明を点じ、喜びを溢れさせ、平和と調和を漂わせようとする時には、どんな不幸も暗黒も病気も諸君の前に近づいてこないに相違ないのである。

恐怖、不安、取り越し苦労、すべての悲しみの想いおよび争いの感情は我々の生命の力を徒(いたずら)に浪費するものであるのである。一度そのような想念感情が起こってきた時には、疫病の病原体が我々の肉体を侵蝕してしまうかのように我々の生命力を枯渇せしめつつあるのである。だから我々が自分の想念感情を、自分の欲するとおりに支配することができないならば、それは自分の領土に敵軍を自由に上陸せしめてその攻略するままに任せているのと同じことである。かかる人は最も憎むべき敵に降伏してしまった種類の奴隷であって、決して自由人ということはできないのである。我々は自分の気分を自分の思うように支配しなければならないのである。そして環境は自己の心の影であるから、自己を支配し得た者のみが環境の支配者となるのである。

『青年の書』 谷口雅春 1964年 日本教文社

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 2003 Yoshiaki Sugimoto