主要メニュー
コーチングを受けて見ませんか  コーチングとは  コーチとは
コーチングの例(パーソナル)  コーチングの例(ビジネス)
体験コーチングの進めかた    体験コーチングの申し込み

神の花園の物語

私に一人の友だちがあるが、彼は美しい景色の良い蓮池を持っていた。その蓮池というのは、彼の所有地 --- 彼はこれを「うちの畑」と呼んでいたが --- にある自然の池であったが、やや遠い山脈のふもとの丘陵にある水源から水が来るのであった。池に導く水源からの水の供給には水門があってその量を調節していた。それは全く超越的な美しい景観であった。そこにずっと夏の間じゅう清らかな澄明な水がたたえられていて水面いっぱいに蓮の花が咲いていた。池畔には初夏咲きの薔薇その他の花が咲きほこっていた。小鳥たちはその池の水を飲みにそしてその水に浴するためにやって来た。蜜蜂はこの自然に咲いた野の花の蜜を集めるためにやって来た。美しい木立ちの間にはいろいろの種類のつる草やシダ類やシノタケのような雑種の草木がしげって、その蓮池の遠景をなしてそれが目のとどくかぎり広々と見渡された。

この友だちは言うまでもなく一個の人間であったが、人間というよりも神人(ゴッド・マン)であり、人類愛の権化のような人であった。したがってまた、彼はこの所有地に「私有地、立入禁止」とか「無断立入者処罰」などという立札は絶対に掲げなかった。それどころかこの幽邃(ゆうすい)な自然美の景勝地へ導く美しい小径の終わりには「何人も蓮池観覧ご自由、どうぞお入りください」という立札が立っていた。誰でも彼を愛しない者はなかった。なぜならだれでも彼を愛しないではおれないからである。彼は人類を愛していたから、彼の持てるものはみな人類のものであった。

その蓮池の地域に来て見ると、しばしば愉快に遊んでいる子供の群れにでくわすことがあるのである。そうかと思うと、疲れた元気のない男女が来ることもあるが、この極楽のような蓮池まで来ると、彼らは急に心の重荷が取り去られたように、明るい表情に変ってゆく。そして彼らが帰途につくときに、低い声で「神はこの蓮池の持ち主を祝福したまう」と唱えて、祈りを捧げているのを私は聞いたことがある。この場所を「神の花園」と呼ぶ人が大勢あった。この友だちはこの地域は自分の「魂の花園」と呼んで静かにここに数時間を過ごすことがあった。他の遊覧客が帰ってしまったあとで彼はこの花園をあちこち散歩したり、静かな月の清い光に照らされながら、野の花からかぐよって来る得も言われぬ芳香を嗅ぎながら、古い田舎風のベンチに腰掛けていることがあった。

彼は簡素な美しい性格の人であった。彼はこう言うのだ。「ここにこそ人生の真がある。そして僕が僕の最も美しい成功を収めたプランをインスピレーションの閃きのように考えついたのは実はここであった」と。

そのあたりの一帯のところには愛と悦びと善意と歓呼の霊気が雰囲気となって漂うているようだった。木立ちの終わるところに寂びた石垣があって、放牧されている牛や羊がその石垣までやって来て、この美しい花園の一角をあたかも人間と同じように鑑賞するかのようにのぞき込むのであった。彼らも人間と同じようにこの楽園の雰囲気に触れて、その美しさ楽しさを理解して、微笑んでいるらしいのである。否、少なくとも第三者から見れば動物もまた人間と同じように楽しんでいるかのように思えるのだ。なぜなら動物は顔こそほころばさぬけれども、その鳴き声や足どりや尾のふり方などが、どうしても悦びで微笑んでいるかのように見えるのである。

蓮池に流れ入る水の通路の水門は、池にゆたかな水がたたえられるように常に広く開かれていたから、水は下方の牧場に灌漑するのにちょうど十分な量、池から間断なくあふれるようになっていたので、清冽な山からの水を放牧されている牛や羊や鶏などが自由に飲めるようになっていた。そこからその水の流れは近隣の田畑を潤すように流れ下るのである。

このあいだ、この友人は一年間よそに旅行することになった。その留守のあいだ、一人の男に彼はこの地面を貸したのだった。この借りた男は、世間で言う「実用一点張り」の性格の男であった。彼は実際に直接的な利益をもたらさないような事柄には時間を費やしている暇はないというような男であった。そこで彼は蓮池と水源とを連絡している水路の水門を閉めてしまったのである。

こうなれば水晶のような清冽な山の水は蓮池に供給されなくなったし、そこから水が溢れて、牧場その他に水が供給されることがなくなったのである。「何人も蓮池観覧ご自由、どうぞお入りください」というのがこの池畔の地主である私の友人の標語であったが、その立札は撤去せられた。そして愉快な子供たちや大人たちの訪れもその蓮池には見られなくなった。

一切万事ことごとく一大変化を来たしたのである。生命を与える新しい清水の供給が途絶してしまったから美しい蓮の花は萎びてしまい、その長い茎は枯れて泥の底に崩折れてしまった。清らかな水がある間は悦んで群れをなして泳ぎ回っていた池の魚は死んでしまい、それが腐朽してあたりに悪臭を放つようになった。もはや池畔にどんな花も咲かなくなったし、水を飲み、ゆあみするために来ていた小鳥たちも来なくなった。もはや蜜蜂の翅のうなりも聴くことができなくなった。その上、池から溢れる水で潤されていた下方の牧場は乾き切ってしまって、放牧されていた家畜や家禽どもは山から来る清い水を飲むことができなくなった。

何という相違であろう。私の友人が深切に手入れをしていた時代のそれと、池に流れ入る水の水門が閉ざされて、生命の本源ともいうべき丘にある水源から遮断されてしまった後のこの場所のありさまとは、あまりにも大きな変化である。生命の本源から来る水が遮断されたとき、蓮池の景観が全然変化したばかりでなく、池畔一帯の牧場の水が奪われ、家禽や家畜どもが飲みに来ることもなくなったのであった。

このような出来事は人間界の出来事にも全くあてはまると考えることはできないであろうか?私たちが、すべての生命の本源なる神との一体を自覚する程度にしたがって、そして、大生命の聖流に自己の心の流入口を開くにしたがって、私たちはいと高く、いと偉大なる、いと美しき普遍の霊との調和ある関係が結ばれることになるのである。そして私たち自身が大生命の大いなる聖流に充ち満たされてその聖流が溢れ出る程度に従って、私たちに接触し来るすべての人たちがその余慶を受けることができるようになるのである。

これが、宇宙における最も真にして最善なるものを愛した私の友人の蓮池の教訓である。そしてこの万徳無限の供給の源泉と一体であるとの自覚の欠乏に程度に応じて、私たちは、その源泉からの聖流に堰をすることになり、そこにはなんら善きもの、美しきもの、生命あるものが見られないこの蓮池とその付近の状態のようになってしまい、我々に接触する人たちも、その余慶を受けることができないばかりか、その悪影響を受けるようになるのである。これが蓮池が他の人の手にわたって水の流れを堰きとめた時の教訓であるのである。

しかし人間は蓮池ではないのである。蓮池と人間の間には相違がある。蓮池はその水源である貯水池からの水門をみずから開く力を自身では持っていないのである。その点において外部から水門を閉ざされた蓮池の不幸は宿命的であり、他の誰かが水門を開いてくれない限りのがれる道はない。しかし私たちは自主的力を持っている。自分の自由選択の意思にしたがって、欲するままに大生命の聖流に道を開くこともできれば、道を閉ざすこともできるのである。それを開くところの鍵は「心の力」であり「想念のはたらき」である。

(後略)

『無限者との協調』 ラルフ・ウォルドー・トライン 1896年 谷口雅春訳

カウンセリングとコーチング
ビジネス・コーチング入門
社会人のためのカウンセリング
ライフワーク・コーチングの奨め

主要メニュー
コーチングを受けて見ませんか  コーチングとは  コーチとは
コーチングの例(パーソナル)  コーチングの例(ビジネス)
体験コーチングの進めかた    体験コーチングの申し込み
 2003 Yoshiaki Sugimoto