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誠の五段活用

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誠とはあくまで実践してこそ誠であって、心の中で思っていたり、言葉に出して言うだけでは誠とは言えない。とにかく実践しかないのだが、実践の場では誠は五段階に活用変化する。これを私は「誠の五段活用」と呼ぶことにしている。

わざわざ
さて「誠の五段活用」の第1は何かというと、「わざわざ」。「面倒くさい」の逆がこの「わざわざ」で、わざわざ訪ねてくる、わざわざ電話する、わざわざ手紙を書くことが最高の誠なのである。というのも神仏が一番嫌がる面倒くさい心から一番遠いのが、この「わざわざ」。だから何をするにしても、わざわざやれば神仏は非常に喜ばれる。もちろん、功徳もたくさんくださる。「わざわざ」が、神仏を動かす一番のポイントなのである。

たとえば、みなさんに子どもができて、それを知ったハワイの親戚が、

「ご出産おめでとうございます。5年間子どもができなかったのに、できて本当によかったですね」

と、わざわざハワイから飛行機に乗って、出産祝いのトウモロコシ1ダースを土産にやってきてくれたらどうだろう。

「ハワイからわざわざ何しに来たんだ?用が済んだらさっさと帰れ!」

と迷惑がる人がいるだろうか。

「いやあ、これはどうも。わざわざ私どもの出産祝いのためにハワイから来てくださって、どうもありがとうございます」

と、誠意を感じて、心から感謝の言葉を述べるのが普通だろう。そのように、わざわざという誠意には人間だって感激するのだから、神仏も感激する。いや、神仏だからこそよりいっそう感激するのである。

神様に対しても人間社会に対しても、面倒くさいという心を克服して、わざわざがいつもできている人は、財産も作っているし名誉もつくっている。出世もしているし、時間も自由につくれる。運も強いし、何をやってもうまくいっている。ここまでできる人は誰でも成功している。ためしに、世の中で出世している人をつぶさに観察したら、1人残らずこれができていることに気づくはずだ。逆にわざわざができていなくて出世している人なんて、1人もいない。政治家であろうと事業家であろうと、はたまた芸術家であろうと、世の中で名を成した人というのは、みんなこれができている。

特に、留学までして自分の道を極めようとする音楽家や画家などは、これがきちんとできている。わざわざ高いお金を払って、わざわざ外国で勉強するのだから、当然それだけのものを会得している。その会得した分だけ他人にはない才能となり、社会的に認められる自分の値打ちになる。それがお金になり名誉になる。時間でもつくろうと思ったら、「あ、どうぞ、どうぞ。ご自由になさってください」と、いくらでも時間がつくれるわけだ。それだけの価値を社会で認めてもらっていない人は、自由が利かない。それだけの価値を家庭で認めてもらっていないから、家族を動かすことができない。両親を動かすことができないわけ。そういう人が下魂。その極地が下の下の下の下の下魂。逆に、誰もが認める価値を持った人が上魂中の上魂。

神仏を動かし、人の心をつかむには誠しかないということは、私の著作の中で終始一貫して書いてきたことだが、この誠を五段階に分けると、まず第一が「わざわざ」。この「わざわざ」ができないというのは怠りであって、それを克服すれば必ず神仏は功徳を与えてくださる。世の中の人間には誰にも御魂があるし、守護霊、守護神もいらっしゃる。よしんば相手が感じなくても、背後の守護霊、守護神は充分誠意を感じて引き立ててくれる。

だから「わざわざ」の誠ができている人はどんな社会でも出世する。「わざわざ」の誠を貫き通して出世していない人など、いるわけがないのである。

さっそく
誠の活用変化の2番目は「さっそく」である。
友人、知人の子どもが生まれたらさっそく、

「いやあ、おめでとうございます。お子様がお生まれになったそうで」

と、お祝いに駆けつける。選挙に当選したら、さっそく、

「当選おめでとうございます。頑張ったかいがありましたね」

とお祝いの言葉をのべる。交通事故に遭ったと聞いたら、イの一番に病院へ駆けつける。そのように何かあったときに、さっそくやってきてくれたら、

「さっそく来てくださいましてありがとうございます。わざわざありがとうございます」

と、「さっそく」と「わざわざ」の両方を使ってお礼を述べる。さっそく来てくれた人には誠意を感じるからである。それに対して、赤ちゃんが生まれて1年もたってから、

「お子様がお生まれになったそうで、おめでとうございます。お祝いに産着を持ってまいりました」

なんて言ったら、

「あのう、うちの子、もう1歳なんですけど」

と言われてしまう。これでも誠は誠かもしれないけれど、感動しない。神仏を動かし、人を感動させるまでの誠ではない。神仏を動かそうと思うなら、何でもさっそくやることだ。ぐずぐずしているのは怠り、面倒くさいのだ。火事場見舞いでも、火が出たとき最初に来てくれた人に最も誠意を感じる。だから、とにもかくにも最初に行く。即、行く。これがさっそくの極意である。

お中元やお歳暮を贈ったとき、すぐに礼状をくれる人は印象に残る。翌日、さっそくお礼の電話をくださったなら、ああ誠意があるなあ、よくできているひとだなあ、という印象が残る。そして、

「さっそくの礼状、ありがとうございます」
「さっそくのお電話ありがとうございます」

と、かえってこちらからお礼を言いたくなる。
だから、さっそくお礼を言う、さっそく電話をかける、さっそくやるというのは誠意、誠なのである。誠があるから気がつく。気がつくからさっそく礼を言う。それができている人は誰からも好かれるし、信頼もされる。少なくとも、さっそくができている人を嫌う人はいない。

考えてみたら、これは営業マンの心構えと全く同じである。営業マンが心得なければならないことはたくさんあるが、最終的には誠意で勝負するしかない。お客様に品物を買っていただいたり、新しい取引先を開拓するためにはもう、わざわざ、さっそく行くのが一番。それができない営業マンに、新規開拓なんて到底できやしない。わざわざ行くなんて面倒くさい、さっそく行くなんて嫌だと言っていたら、営業なんてできるわけがない。営業成績を上げようと思うなら、祝いごと、忌みごとにはわざわざ、さっそくかけつけるべきだ。

「このたびは、開店おめでとうございます。これ、ほんの気持ちです。どうぞお納めください」

「このたびのご不幸、心よりお悔やみ申しあげます。どうぞ、お力を落とさず・・・。何かご用がございましたら、何なりとおっしゃってください」

そうしたら、その誠意に感じて、先方の人脈を紹介してくれるかもしれない。紹介してもらったら、その人間関係によって宝物がやってくる。人から上方をもらったり取引先を紹介してもらう。つまり、感謝でしごとをもらうわけだ。

もう、神様から功徳をいただくのも人間様から功徳をいただくのも全く一緒。この世の運、お金、情報、出世・・・・・・すべてのチャンスは人が与えてくれるのだ。それには、くどいようだが誠を極めるしかない。わざわざ、さっそくの誠ができている人は必ず世の中で出世して、金運にも恵まれ、時間も自由に取れる。

この原則は日本全国どこでも通用する。外国でも通用する。とくに欧米など、「わざわざ」と「さっそく」の文化そのものと言っていい。やれクリスマスだ、やれ誕生日だと言ってはさっそくお祝いし、わざわざカードを書いてお客様を招待する。恋人にはわざわざパールの指輪を贈る。そのかぎりでは、日本人よりも外国人のほうがもっと誠を大切にしていると言ってもいいかもしれない。

そうしてできた人脈が、富と財産と名誉と出世とこの世の成功というものをもたらすわけで、これは神霊世界と全く同じである。

何度も
五段活用の3番目は、「何度も」である。

この会社はすごく見込みがある、ぜひ落としたいと思ったら、九時始業のところをわざわざ九時前に行って、

「この仕事、当社にお願いいたします。何とぞお願いいたします」

と、さっそく一番乗りで営業をかけるのが、仕事を取る一番のポイントである。そうすれば先方も、

「おお、一番乗りなんてずいぶん熱心だね」

と、誠意を感じてくれるはずだ。しかし、1回ぽっきりでその後来ないと言うのだったらどうだろう。

「本当に仕事が欲しいのかなあ。あいつは」と思われるのがオチだろう。

たとえば、交通事故の被害者になった場合、加害者がさっそく、わざわざ、何度も病院に見舞いに来てくれたら思わず、

「わざわざ何度も何度も病院に見舞いに来てくださって、本当にありがとうございます」

と感謝の言葉を口にするだろう。そして示談にするときにも、

「まあ、私も不注意でしたから」

と、素直に自分の過失分を認め、ある程度の保証を受けたらそれ以上要求しないはずだ。車にぶつけられてあちこち傷つけられれば、誰だって腹が立つけど、この三段階の誠意を示されれば納得せざるを得ないだろう。

それに対して、1回ちょっと見舞いにきただけで、その後は全然放ったらかし。うんともすんとも言ってこない。これでは被害者が腹を立てて当然。誠意が感じられないと言って、少しでも多くふんだくってやろうと思っても不思議ではない。そんなことになるのが嫌だから、交通事故の加害者になった人の多くが、何度も何度もお見舞いに行って、お詫びの言葉を述べるわけだ。

心の中で申しわけないとおもっているだけでは相手に通じない。本当に申しわけないと思っているなら、必ず形になって表れるはず。それが「わざわざ」「さっそく」「何度も」なのである。

手みやげ持参で
この「手みやげ持参で」というのは文字通り、何か品物を持って行くこと。知人の家を訪問するとき、手みやげ持参で行ったらどうだろう。より一層、誠が輝くのではないだろうか。

「わざわざ遠路のところをさっそく来ていただいて、こんなに何度も何度もお忙しいところを来ていただいて、そのうえ、こんな結構なものまでいただいて。いいですのに、こんなことしていただかなくて」

と相手の感謝もより深いものになるはずだ。

心は形を求める、すなわち心が本当に素晴らしければ必ず形に出てくる。形は心に添う、すなわち、形を大切にすると気持ちが入ってくる。いずれかが欠けてもダメ。両方そろってはじめて誠が入る。これが顕幽一致というものなのである。

では、どちらが主かというと、幽が主。気持ちが主である。幽が伴わない顕は虚偽、虚礼。儀式張っているだけ。中元、歳暮といっても、本当にこころのこもった顕幽一致の歳暮は人に喜びを与え、人間関係を円滑にするが、心のこもっていない中元、歳暮は義理、虚礼でしかない。たとえ心が伴わなくても、形だけでも整えたほうがよりベターと言えなくもないが、やはり幽を主に置いて形を添える。これが日本の神社のお玉串であり、顕幽一致の斎である。そして、これが日本の生活習慣の中に定着しているのである。

そういう日本のことを批判して、外国人は賄賂社会だと言ったりしているが、そうではない。心に誠があれば形に表したくなるのが日本人のごく自然な情感であって、賄賂だ何だという次元でしかとらえられない外国人とは本質的に違うのだ。

そういう意味で、手みやげ持参でというのは誠を表す重要な要素なのだが、わざわざ、さっそく、何度もがなくて、手みやげ持参だけで、「お願いいたします」と言うのではダメ。手みやげだけでは誠とはいえない。やはり、わざわざ、さっそく、何度もができた上での手みやげ持参でなければ本当ではない。では、わざわざ、さっそく、何度もができていて手みやげ持参がある人とない人とでは、どっちを大事にするか。どちらを本物だと感じるか。当然、後者だろう。目上の人にものを頼むとき、あるいはいつもお世話になっている人には当然、気持ちを何らかの形で表すはず。受け取る方も、そうされることによって、「ああ、ありがとう」と素直に喜ぶ。

礼儀正しい言葉で
最後の5番目は「礼儀正しい言葉で」である。加えて、言葉の表現力があればなおいい。麗しい表現、美しい表現を自由自在にあやつれるようになれば、神力も倍増するだろう。そのためにも、常日頃から言葉使いに気をつけ、最低でも正しい敬語の使い方ぐらいはマスターしたいもの。理想を言えば和歌をたしなみ、いにしえから伝わる美しい日本語、すなわち古語が使えるようになりたいところだが、それがかなわぬとなれば、せめて粗野な言葉だけは使わないよう心がけたいものである。

ここまで述べてきた誠の五段活用がビシッとできていて、お陰がないという人がもしいるとするならば、どんな人なのか、直接お会いしてこの目で確かめたいくらいだ。世の中で立派な人だと言われている人を見れば分かる。みんながみんな、この五つがきちんとできているはずだ。

手紙を出したらすぐにパッと返事が返ってくる。中元、歳暮でも何でもいただいたらきちんとお礼を持ってきて、恭しく感謝の言葉を述べる。しかも気持ちがこもっている。そういう人はどんなときでも、わざわざ、さっそく、何度も、手みやげ持参が自然にできていて、麗しくも美しい言葉をいつもきちんと使っている。要するに、誠がいつも極まっているから、どんな立場に立っても周囲から高く評価されるのである。

『神仏のことがわかる本』 深見東州 2002年 たちばな出版

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 2003 Yoshiaki Sugimoto