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憎まれっ子、世にはばかる![]() ![]() ![]() ![]() |
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「憎まれっ子、世にはばかる」 名言だと思う。もっと世にはばかりたかったら、憎まれっ子になればいいわけだ。なぜ憎まれっ子、世にはばかるのか。これを私は分析してみた。 憎まれっ子、世にはばかると言われるように、本当にやりにくくて我が強くて自己中心でワンマンな人は、わりと長生きしている。頑固というのでガンになる人もいるが、 「ほんとにやりにくい主人で、娘のことも考えずに、言ったら言ったきり」 で、みんなから嫌われている人でも、九十何歳とか八十何歳の人がいる。 「あのお父さんのそばで、お母さんは苦労して苦労して、そのために早く亡くなったんですね」 なんていうのも良く聞く。佳人薄命というが、いい人は本当に早く亡くなって、みんなから嫌われる人ほど堂々と生きている。この憎むべき事実というものを、私は分析したのだ。なぜ憎まれっ子が、世にはばかり、長寿なのか、と。 もちろん、人を苦しめながら長く生きた分だけ地獄で苦しむレベルも大きいのだが、とりあえず長く生きている。そう考えると、憎まれっ子には生命力がある。長いか短いかという点で、やはり憎まれっ子が長生きするのはストレスがないからなのだ。 いい人はなぜ死ぬのかというと、憎まれっ子によるストレスをもろに受けてしまうからだ。ストレスがたまると早死にするというのは医学的にも根拠があることだ。憎まれっ子で、言いたいことを言う、やりたいことをやっているという、ワンマンでわがままでやりにくい人に対しては、周囲は本当に気を使って、ストレスがたまる。 そういう困ったじいさんは、死んだら地獄に落ちて、心優しい先に亡くなったおばあさんは天国に行ったに違いない、と皆さんは期待されていることだと思う。 ところが、その反対の場合も多いのである。意外にこういう憎まれ者の人がある程度いい霊界に行っていることがある。絶えず明るくて朗らかで、言いたいことを言えて元気だからだ。おまけに人に全部押しつけているから悶々としない。 反対にその人に苦しめられた周りの人は、あまりいい霊界に行っていないものだ。絶えず苦しみと葛藤の状態にいて、その思いの世界に合った下の霊界に行っているから、一見、すごく人がよかった人ほど霊界で苦しんでいる人が多いのは、見ていて気の毒である。 なぜこんなことが起きるのか。それは、ストレスが、人の良い人自らの御魂(人間の中の神なる部分)を痛ましめているからである。少々心が痛むくらいならいいが、自己の御魂まで痛めているからなのだ。 憎まれっ子の方はストレスがなく、たまにあっても絶えず発散して、自分を大切にしている。だから、自分の御魂は絶えず晴れ晴れとして発展的で、陽気で、楽しい。周囲が全部悪いんだと言っていられるからだ。それで意外にいい霊界へ行く。もちろん生前人を苦しめた業で、はじめは少々霊界で苦しむことがあったとしても、やがていい霊界へ行く。神霊世界では、発展の妙気があることが好まれるからである。 悪の心があったら地獄界ではあるが、善なる心でやりにくいという人は霊界でそれほど苦しんでいない。逆にすごくいい人、まじめな人、真剣な人、善人、愛情ある人のほうが地獄へ行くのだ。本当に不合理なことだけれども、そうなっている。 だから、信仰心があるとか、考え方の工夫をして心を苦しめないひとはまあまあいいところにいるが、周囲でその人を憎んだり、うらんだりした人は、生前の地獄のような苦しみの日々に比例した、霊界の地獄界へ行ってしまう。 もちろん、それだけ絶対的にまわりに苦を与えたという人は、霊界でマイナスの得点にはなっている。しかし、世の人々の第一番目は自分であるから、自分を大切にしたという人は、それでも比較的ましな霊層にいるのだ。 いい人だけれど、ものすごくストレスをためている人は、自分を傷つけているから、神様から見たら不合格なのだ。そんな人が貢献してことといえば、憎まれっ子をいい世界に送って、憎まれつつ長生きさせたという功徳である。その分はプラスだろうけれども、絶対量から見たら自分の魂を痛めているので、神様は喜ばないのだ。そこで当然、霊界で苦しんでいる。非常に不合理だとは思う。 いくら当人が自分だけ朗らかだからと言って、人を苦しめた憎まれっ子が良い霊界に行き、苦しめられた人が下の霊界に行くとなると、これは割が合わない現実だ。「神も仏もないものか」と言いたくなる。 「深刻」とは内なる神を刻み痛めること 「深刻な状況」とよくいうが、言霊でみると「神様を剋している」という意味になる。ここでいう神様とは、みずからの中にある神様のことだ。私たちは神様の分魂をそれぞれの内に持っていて、これをご本霊とか御魂という。そして深刻にものを考える時にはみずからの内なる神を剋しているのだ。 そうあってはならないから神道では、只今、只今を大切にして、楽天的で発展的な生き方というものを重視する。それが自分の魂を輝かせるからだ。そんな時には守護霊、守護神も強く守護する。 たとえばお金でだまされても、たとえば嫁さんが逃げていっても、あるいは離婚しても、事業が失敗しても、会社はつぶれても魂は痛めないんだ、と悠然として頑張る人間には、必ず神様がほほえんでくれる。ところが、一つ失敗すると「だめなんじゃないか」と自信を喪失し、深刻に反省するものだ。これはよくない。反省の「省」は少な目と書くが、神の道からいうと、絶えず少な目に省みて(反省はほどほどにして)、只今、只今を前向きに明るく生きて行こうというのが惟神(かんながら)の道である。 何かよほど失敗した時でも、「深刻になるな!楽天的に行け!」と自分に呼びかけていただきたい。とにかくそうやって只今、只今を明るく楽天的で一生懸命生きること。それが神意に合うのである。失敗をしたり、問題点があってり、苦労したり、挫折しても、反省は少なめにとどめて、それ以上あまり深刻に反省し過ぎないことだ。発展力がなくなって、魂を痛めつける。見た目にはすばらしい人格者でも、霊界ではいいところへ行けないことになる。少々やりにくくても、楽天的で積極的で明るい方がいいのだ。 理想の夫婦はガーガーやり合うもの 世のご夫婦というのは、お互いの関係というか、仲がよろしくないと悩んでいる方たちが実に多い。聞いてみると、ご主人に完璧を望むし、夫婦の理想の像というのがあると思っていて、それに合わないからと悩んでいる。夫婦の理想の像などというのは、両方長生きして、別れないで、適当に両方が楽しんでいたらいいのにと私は思う。 とにかく、そんな理想の「おまえ百までわしゃ九十九まで」なんて結婚は、滅多にありはしないのに、私が見ていると、ほとんどがこの点を不満に思っている。よほどの信仰力があるか、ぴったりの人でない限り無理だ。だから夫婦げんかはして当たり前のもので、夫と妻はやりにくいものだと思っておけばよい。 百点満点の理想像を追うからストレスがたまるのだ。向こうがやりにくかったら、自分も少しやりにくい女房になり、やりにくい夫になればよい。両方充実していて、明るく元気で積極的で発展的だったら、その方がいいのだ。法律的にも拘束されているのだから、せめて魂は拘束されないようにやらないと、やがて別れたくなる。どんな人でも20年、30年もしたら嫌になるもので、飽きもくる。 このことをよく考えないと、私たちは内なる神を剋してしまって、いい人ほど早く死ぬ。善人ほど、苦しんで嫌な思いをするのだ。 だから、「私は結婚したら70点の奥さんを目指そう」と思えばいい。夫が百点満点じゃないからといって、夫の欠点を改めさせようなんて努力しても、結局、ガッカリして続かなくなってしまうだけだ。また、自分も百点の妻になろうとするのはいいが、過度の無理を己に課さないことだ。毎日毎日自分は足りないなんて自分を責めていたら、ストレスがたまって胃腸が悪くなって病気になるか、あるいは離婚することになるのがおちである。 理想としては、夫婦のそれぞれの「良さ」と「よくない」のバランスが、7−3ぐらいがいい。70点、良をいただければいいのじゃないか。自らの神を痛めない、ストレスをためない、これが肉体の耐用年数、それから精神的な寿命を長くしていくために非常に重要なことだ。 『悪霊退散』 深見東州 2000年 たちばな出版 ●カウンセリングとコーチング ●ビジネス・コーチング入門 ●社会人のためのカウンセリング ●ライフワーク・コーチングの奨め 主要メニュー コーチングを受けて見ませんか コーチングとは コーチとは コーチングの例(パーソナル) コーチングの例(ビジネス) 体験コーチングの進めかた 体験コーチングの申し込み |
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2003 Yoshiaki Sugimoto |