人間はひとりひとり、はっきりと目的を持ってこの世に生まれてきている。自分が霊界にいるときに、「今度はこういう修行をして御魂(みたま)のレベルを向上させたいと思います」と、神様に誓いを立てて生まれてくるのである。
これが天命である。自分が今生においてやりとげねばならない目的のことだ。
最近、幼児や胎児の能力開発に関する研究が盛んだが、そういう機関でも、小さな子供が自分の生まれてきた目的を、はっきり親に告げる例が報告されているという。生まれる前の記憶を、一部持ち続けたまま生まれてきたのであろう。私たちが、自ら選んだ天命を持って生まれてきていることの証明だろう。
そういった天命を持っている以上、また霊界に帰るまでの間に、やはり何かをこの世に残しておかなければいけないわけである。
そのため、充分修行ができるようにと、自ら選んで因縁の深い家に生まれてきたりするのだ。霊界での記憶は、この世に出てくるときに消去(といっても、潜在意識の奥にはしっかり記録されているが)されることになっているので、もちろんほとんどの場合は、自分の天命を覚えていない。修行しながらだんだんそれに気づいていくのである。
その修行とは、自分で自分に課したさまざまな課題を克服し、乗り越えていくことである。そういった課題が、いわゆる人生の試練となって自分の目の前に立ちはだかるのだ。
使命感を持った高い御魂だからこそ、世俗の幸せと中途半端な満足の中に安住してしまうと、本来の天命と実際の生き方が噛み合わなくなってしまう。それでは何のために生まれてきたのかわからない。
元々高いレベルの御魂であれば、この世で人一倍恵まれた人生を送ることはできる。異性にはもてるし、家庭運もいいし、才能もあるし、幸せになろうと思えばいくらでもそれに浸ることはできる。しかしそんなこと(幸せに浸って生きること)のために生まれてきたわけではないのだ。
高いレベルの御魂ほど、恵まれた才能を活用して、神の大御心(おおみこころ)を成就しようと思っている。社会に何かを成していこうと発願し、それだけの能力を持っている。
ところが、この世の楽しみ事に耽るうちに、あれよあれよという間に年をとっていって、何もできなくなってしまった・・・・・・そんなことでは困る。だから、神様が霊界での約束に基いて試練を与えるのである。
病気の苦しみ、経済的な苦しみ、結婚できない苦しみ、対人関係の苦しみ、自分のやりたいことがやれない苦しみ、社会の理不尽さに直面する苦しみ、その他さまざまな形で神の試練は用意されている。
苦しみは他人と共有することができない。悩み・苦しんでいるときの心は孤独である。でも時には、他人が優しい言葉で励ましてくれるかもしれない。一緒に泣いてくれるかもしれない。
しかし、それだけでは解決しないのだ。心の中では常にただ一人で状況に向かい合い、歯を食いしばり、挫けそうになるのを必死でこらえながら、試練に立ち向かうしかないのである。私はこれを「絶対的な孤独」と呼んでいる。
逃げも隠れもできない絶対的な孤独の中にあって、初めて、その人の誠が試される。全力をあげて苦しみを乗り越えるための叡智を振り絞るなかで、その人の御魂が磨かれる。
だからこそ神様は、自ら発願し道を求める者に、何らかの試練をお与えになって、絶対的な孤独の中にいるように仕向けてくるのである。それなくして宗教的人格の完成もあり得ないからである。
日蓮が遺した神人合一の言葉には素晴らしいものが沢山あるが、その中に次のようなものがある。
「心は晴れて明くらく、心曇りて明あかねさす。暗黒の闇に入りてこそ神明の真中にあり」
この「心は晴れて明くらく」というのは、心が明るい人は逆に魂の霊的な明るさ
--- 霊明、御魂の輝き、聡明さといったものが暗くなるという意味である。
「心曇りて明あかねさす」というのは、その逆で、心の暗いときにこそ、霊明が輝くという意味だ。
そして「暗黒の闇に入りてこそ神明の真中にあり」とは、絶対的な孤独の中にいてこそ、ほんとうの神との交流ができるという意味である。
神が試練を与えるのは、絶対的な孤独を体験させるためだということを、日蓮もよく理解していた。だからこそ、「我に艱難辛苦を与えたまえ!」と神仏に発願したのである。そして、彼なりの神人合一の道をあの時代に全うしたのだ。まさに、「心は晴れて明くらく、心曇りて明あかねさす。暗黒の闇に入りてこそ神明の真中にあり」という生きざまそのものだったのだろう。
これを聞いて「そうか、性格が暗いのはいいんだ」などと思ったら大間違いである。そんな浅い意味で受け取る人はまさかいないとは思うが、一応念のため。性格は明るい方がいいに決まっている。しかし、絶えず心が晴れて、明るく、元気で生きてさえいればいいというものではないということなのだ。
真面目に、真剣に、あるときは深刻にものに立ち向かっていくときがあってもいいのだ。実際、楽天主義だけでは超えられない壁というのが、人生のなかでいくつもある。それをみんな、神様の与えてくれた試練として受け止め、歯を食いしばって乗り越えてゆく。そのときにこそ、霊明なる英知と神力が魂の底から湧いてくるのを知ることができるのである。
それこそが神人合一の道である。同時に、神仕組をすすめていく担い手としての修養の基本なのである。
『心の金縛りがとける本』 深見東州 1999年 たちばな出版
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