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天命とは

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よく「天命」ということを言う。人がこの世でなすべきこと、神様から与えられた定めが天命である。では、それはどの程度まで決まっているものなのだろうか。たとえば

「おまえは不動産屋をやれ!」

と神様に言われて生まれてくる人がいるわけではない。はっきり言えば職業なんてどうでもいいのである。

男性に生まれるか、女性に生まれるか,日本に生まれるか、アメリカに生まれるか、大体何年の何月ぐらいに生まれるかということは決まっている。はじめから決まっている天命と言えるのは、およそそれくらいで、後は本人の選択でいくらでも変わる。何の職業につくかなどどうでもいいのだ。神様はそんな細かいことまでいちいち口を出さない。

天性というものは確かにある。文科系的素養が強いとか、理科系的素養が強いとか、持って生まれた素質は、人それぞれ違う。天性は自分の心に内在している魂の傾向なのだ。それは前世にどんな職業に従事してきたか、どれだけ学問を深めたかなどによって変わってくる。心に内在しているものだから、天性に合ったことをやると「ああ、満足だ。嬉しい、楽しい、面白い」と心が喜ぶ。自分でそう感じられる仕事が天職なのだ。

文科系的素養がある人が文科系的な仕事をすると、心が「嬉しい、楽しい」と言うので、何時間やっても飽きが来ない。それが合ってるのだ。そういう人が、無理に数式などを計算していると、頭が痛くなってくる。鼻血を出したりするかもしれない。

反対に理科系の人は数値などを見て研究しているのが楽しい。文学なんて、答えがあるようなないような感じでよくわからない、数学は必ず答えがあるからいい、と思っている。そういう人が理科系の仕事につけば、それは天職である。それぞれ、天性に合った、心が喜ぶ仕事につけばよいのだ。

もちろん、文科系の仕事といってもピンからキリまであるだろう。理科系でもピンからキリまである。そして、キリよりもピンのほうが心が満足するから、後は努力次第で職種を選び、さらに仕事をグレードアップして、自分をランクアップさせていくことである。

もちろん、誰もが最初から、本当に心が喜ぶ仕事につけるわけではない。自分に合っていると思って選んだつもりでも、全然心が喜ばないことをやらされることもある。本がつくりたくて出版社に入ったけど、事務ばかりやらされているとか、電車に乗りたくてJRに就職したのだけれど売店に回されたとか、いろいろあるだろう。

私もそうだった。営業でも何でも、嫌だ嫌だ、と思うところへ言って、嫌なことをしなければならないことが多かった。しかし、その時は本当に嫌で嫌でたまらなかったのだが、今から思うとそれも必要なことだったんだな、と思えるのだ。

あるいは、本当に自分の意志で選んで、望んでついた仕事なのに、やってみたら思い描いていたのと大分違ったという人もいるだろう。こんなにお金にならないとは思わなかったとか、こんなにしんどいとは思わなかったとか、人間関係がどうもしっくり行かないとか。私もそうだった。これが本当に天職なんだろうか、どうなんだろうか、と誰しも悩む時があると思う。

しかし、「これだ!」と思える仕事がないと言うのは、それだけ究極的な天職に出会うほどには、自分が切に求めていないからなのである。

はっきりこの法則を申し上げておこう。心が喜ぶ、深く感動するというのは、深く求めたから感動するのだ。

たとえば、美術の勉強をしている人が、本当に美しい絵を見た時の感動は深い。これは何の勉強もしていない人が絵をみて「ふーん」とそれなりに感動した、というのとは比べものにならない。一生懸命、美の世界を求め、その方向に深く心が向いているからこそ、魂の深い感動があるのだ。これは他の分野や職業でも同じことである。

ところが、そんなに求めたつもりはないけれど、ある時何かとの電撃的な出会いがあり、ものすごく深く感動したという場合がある。これは、前世でそのことを深く求めていた記憶があるからである。たとえば、絵とか音楽を前世で深く求めて来た人は、小さい時から美しい絵を見たり、ピアノの音を聞くと「ああっ」と感動する。心の奥底から、ピーンと来るものがあるのだ。

ところが、前世、それほど深く求めたものがない人は、何をやってもピンと来ない。前世のことはもう過ぎたことだから、そういう人はどうすればいいのかと言うと、とりあえず何でもいいから、目の前にあることを一生懸命やってみることである。そして実はそれが心が望んでいることでもあるのだ。

「目の前のことを一生懸命やる、その時に喜ぼうね、喜びとしようね」

というのは、万国共通の心の共同組合の申し送り事項なのだ。だから、「吐きながらでも行動すること」である。

一番問題なのは右にしようか左にしようかと迷っている状態だ。あっちにしようかこっちにしようか、ずっと迷ったままで、結局行動しない。AかBか、一つのことに決めて一生懸命やらないと心は喜ばない。つまり御魂が発動しないのだ。

御魂が発動しないと守護霊さんも守護してくれない。本人が自分で選択して魂を燃やさないと守護してはいけないというのは、守護霊共同組合の申し送り事項なのである。

たとえば、囲碁をするか、将棋の道に進むか迷っているとする。どちらもあまり変わらないような気がするとしよう。

その場合は、とりあえず今少しでも興味があるほうへ突き進むことだ。そして囲碁を選んだら、将棋のことはとりあえず頭から消し去って、とことん囲碁に没頭する。それこそ寝食を忘れるくらいに碁のことだけ考える。頭の中にいつも碁盤と碁石が浮かんで、白と黒がせめぎあっている。そこまで来れば、魂が発動している状態になる。

すると、たとえば誰かよいお師匠さんと巡り会って

「お前は筋がいいから俺の所へ来い」

ということになることもあるだろう。いい出会いがあって、「やっぱり囲碁を選んでよかった」ということになる。守護霊さんは、ちゃんと時期を見計らって、そういう縁を準備してくれるのだ。

では、大所高所から見て、囲碁がその人の究極の道ではなかった場合はどうだろう。

一生懸命囲碁をやって、囲碁が大好きになったのだけれど、どうしても伸びない。後から始めた人にどんどん追い越され、負かされてしまう。やはり、自分には才能がなかったのか、と徹底的に落ち込むことになるかもしれない。

しかし、とことん突き進んだ上で、にっちもさっちも行かなくなった時、守護霊さんはちゃんと動いてくれるのだ。

もう駄目かなと思いながらも、縁側でパチンパチンと碁石を並べていると、親戚の叔父さんが遊びに来た。一生懸命やりながらも苦しんでいた自分をずっと見ていて、何とかしてやりたいなと思っていてくれた叔父さんである。そして、たまたまその叔父さんの知り合いに将棋の谷川名人がいて、自分のことを話してくれたらしい。

「谷川名人が、将棋だったら僕の直弟子にしてもいいんだけど、と言っていたぞ」

なんていう話を聞かされたら、その時将棋に変わればいいのだ。谷川名人との出会いがあって、それから将棋に転向して「やっぱり僕は将棋だったんだ」と思ったら、後は徹底して迷いがない。だから将棋の大家になるだろう。

そこまで魂を発動させて一生懸命努力して時には、どんな職業でも天職になっている。この職種でなければダメだと、最初から決められているわけではないのだ。

ところで、先の例で、もし囲碁を一生懸命やっていなかったらどうだったろう。もちろん、将棋を選択して死にもの狂いで努力すれば、それでいいのだが、将棋か囲碁かいつまでも迷って決断しなかったら、その時は、谷川名人との出会いも当然ないわけだ。

人間は神さまから自由意志を与えられている。自分で選択するからこそ、進歩向上するのだ。守護霊はあくまで魂の教育係だから、本人が一生懸命努力して御魂を発動させた時に、はじめてそうした縁を作ってくださるのだ。あるいは現実界のレベルで言うと、そこまで死にもの狂いで頑張っている姿を知っていたからこそ、叔父さんは知り合いの谷川名人にそんな話をしたのだ。

だから、とにかくこうと決めて一生懸命、目の前にあることに精一杯の努力を傾けることだ。もし、道が間違っていても、それでもいいのだ。あるところまで来たら、守護霊さんが「お前の道はこっちだよ」と導いてくれる。

多少不親切なような気がするかもしれない。天性にあった道があるなら、最初から教えてくれればいいのに、と思う方もいるだろう。しかし、実はこれは守護霊共同組合の顧問である、神様の深い配慮に基くものなのだ。

「今度は息子が小学校なんですが、私立がいいでしょうか、地元の学校がいいでしょうか」「転勤になるんですが、家族で引っ越そうか、単身赴任がいいか教えてください」「夏休みは海に行くか山に行くか迷っているんですが」

一つ具体的に教えると,次から次へと具体的に聞かないと人生を送れなくなってしまうのだ。巷の易者さんなどはリピートオーダーがあった方がありがたいから、このパターンなのだが、それでは結局本人のためにならない。自分で考えて、迷って選んで「これだ!」と思ったことのほうが、本人が徹底して努力するのだ。

なぜ具体的なことを聞きたいのかというと、結局楽をしたいからだ。最短距離を行きたい、無駄な努力をしたくない、というのが人の常である。人間は合理的な頭脳を持っているから、

「余計な苦労が大好きです。何度でも挫折を味わいたいんです」

という人はまずいないだろう。最終的に将棋の道に進むのが天職で、40歳で名人になるのだったら、誰でも途中で一度挫折して方向転換をするのではなく、最短距離を行って35歳で名人になりたいと思うに決まっている。

では、もし具体的にわかって、

「そうか。じゃあ将棋をやればいいんだな」

と思ったとしよう。そこで将棋を始めたとしても、「いずれ自分は名人になるんだ」とタカをくくっていたのでは、なかなか徹底して努力はしないだろう。それでも才能に恵まれて、そこそこいい成績をおさめたとしても、決定的に欠けるものがある。それは、失敗する中から、悟り、練磨される人間としての魅力だ。紆余曲折の過程で知り合う人脈、どん底から這い上がる中で築かれる精神的ベース、ギリギリまで追い込まれた時の力強い開き直り。

そうしたものがないから、最初は「努力次第では35歳くらいで名人位につけてやろう」と神様、守護霊さんは決めていたとしても、

「いや、まだまだその器ではない。時期尚早である」

ということになる。一つの道の頂点を究めるというのは、それほど生やさしいことではない。甘い考えでは35歳になっても、絶対に名人になどなれるわけはないのだ。

一方、紆余曲折を経た人は、失敗の中から悟り、本物になるための精神的なベースが鍛えられ、いろいろな経験を積む中から信頼できる人脈を築き上げて行く。そして、それこそが本当の意味での本人の財産、御魂の恩頼(ふゆ・栄養)なのだ。

そうして、時間はかかるかもしれないが、本当の実力を蓄えて、押しも押されもしない人間になっていくのである。これがない人間が、名人位を何期も連続で防衛できるような、一流の中の一流、本当の本物になることは絶対にない。

だから、はじめから教えないというのは、神様、守護霊さんの大いなる愛なのだ。全体の方向性がちょっと示されるだけで、後は何も言わない。そこで迷い、それでも自分の意志で判断して決めて、ひたすら情熱を傾けて一生懸命努力していく。しかし、失敗して、打ちのめされ、孤独の中に叩き込まれて、もがき苦しんで、ギリギリのところまで行った時、魂は絶叫する。

それを聞いた時、初めて守護霊さんは、神様が用意してくださった方向へふっと導いてくれるのだ。しかし、もちろんそれで終わりではない。また一からやり直すのだ。

開運期というのは、人によって違うが、だいたい34〜35歳くらいに一度来ることが多い。だから、とにかくそれまでは頑張るしかない。苦しみを乗り越えないところには喜びもないのだ。ある年齢と経験に達したら、必ず本来の道にぱっと導いてくれる。その時までは、守護霊さんも痛し痒しでお待ちになっているのだから、そう信じて努力していただきたい。

そうすれば必ず、ああ、この道に来てよかったんだ、今までの遠回りは、こうなるために全て必要なことだったんだ、とわかる時が来る。その時は、心も本当にニコニコと喜び、そして自分の人生に対して揺るぎない自信が身についているはずだ。

『宇宙からの強運』 深見東州 1996年 たちばな出版

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 2003 Yoshiaki Sugimoto