Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.27

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩の乱と大阪天満宮」
その1

相蘇 一弘

『大阪天満宮史の研究 第2集』(大阪天満宮史料室編 思文閣出版 1993) より


◇禁転載◇



   はじめに

 天保八年(一八三七)二月十九日に大坂で勃発した大塩平八郎の乱は、日本中を驚かせた大事件であったためか流布した史料が多く、古書の売り立て目録などでも「大塩の乱関係資料」として目にすることが多い。そのほとんどは檄文や関係者の断片的な記録、風説などを書写して編集したものか、あるいはこれらの史料を用いて乱の顛末を記したものである。これらの史料は、誰が、いつ、何に基づいて記しているのか不明なものが多いが、衝撃的な事件ほどさまざまな解釈がつけ加えられて伝聞内容が次第に誇張されて行く傾向にあるし、転写が繰り返されると人名や地名、語句などの写し間違いも生じる。従って内容的にどこまで信用できるのかわからないものも多く含まれているわけで、これらの史料をそのまま信用すると思わぬ間違いを犯してしまうこともあり得る。もちろんどのようなテーマでも史料考証は大切なことであるが、大塩の乱については上記の理由からとくに注意を払うことが必要であると思われる。

 ところで、大塩平八郎その人や大塩の乱について信頼度の高い史料としては、@著書、書状、詩文、檄文など大塩自身が残した史料、A逮捕者の自白書、吟味一件伺書、裁許状など幕府の公文書、B事態の収拾にあたった幕府側関係者の証言や記録、C乱をじかに見聞した人の体験記録や私信、D地方文書に現れた乱の関係記録、E筆者のあきらかな情報収集史料などがある。近年@に属する伊豆韮山の江川家文書による『大塩平八郎建議書』、Aに属する国立史料館蔵の『大塩平八郎一件留書』など大塩の乱研究の根本史料とも言うべき文書が相ついで翻刻され、またC〜Eの史料についても地方史研究の成果として新しい史料がつぎつぎと発掘されつつある。

 ところで、Cの史料のなかには大塩隊の砲撃を受けたり、類焼によって家屋を失った被害者側の記録も含まれるが、これについては住友家の家史である『垂裕明鑑』 (1)、『稿本三井家史料 小石川家第六代三井高益』の収録文書 (2)、加島屋某の「天保日記」 (3)、鴻池新十郎家の記録「北辺火事一件留」 (4) などが紹介されているが、他の史料に比べると意外に少ないというのが現状である。最近このような大塩の乱の被害者側の史料として、徳川家康を祀る川崎東照宮の別当寺(神宮寺)である建国寺の文書「天保御遷座一件」 (5) と、大阪天満宮 (6) の記録を拝見する機会を得た。

   【図1 川崎東照宮と建国寺(東光寺蔵) 略】

 大阪天満宮関係の中心となる史料は次の三種である。その一は神主滋岡功長の日記。天保八年二月十九日〜三月二十四日までの阪大滋岡家文書No.124と同三月二十五日から四月二十八日までの阪大滋岡家文書No.125(以下「滋岡日記」と略す)が乱および直後の記録である。その二は表題に「壱番 天保八年丁酉二月日 日記 滋岡家役所」とある滋岡家の記録で、これも大阪大学所蔵(阪大滋岡家文書No.123、以下「役所日記」と略す)、その三は表題に「従天保八丁酉年二月十九日到同年七月三十日 日記 壱番」とある大阪天満宮の社家の当番が記録した公日記(大阪天満宮文書K1−52、以下「仮日記」と略す)である。建国寺の「天保御遷座一件」は未紹介の史料であり、大阪天満宮史料も部分的には既に紹介されているものの (7)、まだ全文の翻刻ならびに分析はされていないものである。

 建国寺文書は大塩の乱が勃発した当初の生々しい模様を語る数少ない史料として貴重であり、大阪天満宮文書は乱が天満郷に拡大してゆく過程と、不意の事件に大阪天満宮の関係者がどのように対応したか、事件当日の天満の様子をうかがうことのできる史料として注目される。また、大塩の乱の一級史料ともいうべきこれらの信頼すべき史料に、おなじ事件がどのように記録されているか、また一般に流布する風説書などに記されている伝聞はどの程度の史実を伝えているものかなどの点についても二月十九日を中心に考察してみたい。


【注】
(1) 中瀬寿一「大塩事件と特権的大町人=泉屋住友――住友家史『垂裕明鑑』(巻之一九)の紹介を中心に――」(『大塩研究』第五号所収、一九七八年)。ただしこの史料は日記や書簡などをもとに明治以降に編纂されたものである。
(2) 三井文庫・天理大学図書館蔵、中瀬寿一「史料が語る大塩事件の全国伝播と”大塩ブーム“=幕政批判思想の胎動,民衆文化の創造――その一,畿内を中心に――」所収(『大阪産業大学論集 社会科学編』七二号、一九八八年)。
(3) 大阪市立中央図書館蔵、中瀬前掲論文所収。
(4) 大阪商業大学商業史資料館蔵、安藤重雄「『北辺火事一件留』の史料学的考察」(『大塩研究』第九号所収、一九八〇年)。
(5) 豊中市東光院所蔵第二七号文書。東光院はもと摂津西成郡下三番村(現北区中津付近)にあり、明治六年川崎東照宮が廃社になったときに本地堂を移築した関係で建国寺の古記録を伝えている。
(6) 大阪天満宮は江戸時代には「天満天神社」とも称されることも多かったが、本稿では原史料以外は「大阪天満宮」に統一する。
(7) 時野谷勝「天満天神社と大坂町人――大塩の乱前後における――」(『赤松俊秀教授退官記念国史論集』所収。一九七二年、のち「大阪天満宮と大坂町人――大塩の乱の前後における――」と改題されて『大阪天満宮史の研究』一九九一年刊に収録)。薮田貫「大塩平八郎の乱(一)」(『大阪保健医雑誌』一九八三年五月号所収)。伊勢戸佐一郎「大阪天満宮史料が語る大塩事件実録(一)」(『東大阪短期大学研究紀要』一五・一六所収、一九九〇年)など。




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