相蘇 一弘
『大阪天満宮史の研究 第2集』(大阪天満宮史料室編 思文閣出版 1993) より
はじめに 一、 大塩は建国寺を砲撃したか 二、 二月十九日の大阪天満宮 三、 大阪天満宮の被害と再建への動き おわりに
大塩研究の基本文献のひとつとして位置づけられている石崎東国の『大塩平八郎伝』 (8) は「建国寺炮撃」と言う項を立てて「先生命ジテ遂ニ義軍ヲ発動セシムルヤ、先ヅ洗心洞背後ノ建国寺ヲ望デ砲撃セシム、一発シテ未ダ爆発セズ、二発ニシテ遂ニ屋上ニ爆発ス、是レ義軍発動第一ノ狼煙ナリ」と記している。また、大塩が建国寺を砲撃した理由としては「蓋シ建国寺ハ東照宮ヲ祀ル所、故ニ大阪奉行ニ取テ守護ノ任最モ重シ、其災害ニ遭フ自ラ出馬シテ之ヲ救ハザルベカラズ、先生之ヲ以テ初ニ建国寺ヲ砲撃シ、奉行ノ出ズルヲ待テ先ズ之ヲ掩撃シテ一般方略ノ破綻ヲ徊復セント欲スル也」と記し、「先生建国寺炮撃ヲ以テ奉行誘出ノ策トナシタルモノ終ニ奉行ノ出馬ヲ見ル能ハザリシ」と述べている。私も昭和五一年に大阪市立博物館で開催した「大塩平八郎展」の図録で「一党は五ツ時(午前八時)大塩邸に火を放ち、向屋敷の朝岡助之丞宅、裏の建国寺を砲撃して出陣した」と記し、近年でも中瀬寿一氏は論考「史料が語る大塩事件のトリプル・ダイナミズム――天保八年二月十九日の大塩側・幕府側および民衆側の、時々刻々の三つ巴の動向――」 (9) で、「二月十九日五ツ時頃、大塩軍自邸の屋敷塀を倒すとともに朝岡助之丞宅へ大砲を打ち込み、東照宮をまつる建国寺を砲撃・炎上させ、自邸にも火をつける」としている。石崎の記述はおそらく『塩賊騒乱記』 (10) に、「(密告によって当初の計画を狂わされた大塩は)一味之者廿人計ニて近隣を焼たて\/、次に建国寺には東照宮之御宮あり、爰を放火せは御宮守護として両町奉行出馬あるハ必定なり。其時本望を達せんと、建国寺之後より火矢を打かけ\/しに、(中略)賊徒ハほしい儘に建国寺を焼立けれとも、奉行之出馬もあらされハ、案に相違して、扨ハ臆したるなるへし、少しも猶予すへきにあらすとて引き返し」それから天満の町を焼いた、とある記事をもとにしたものであろう。また、天満組惣年寄をつとめた今井克復が明治になって語った大塩の乱の回想録 (11) にも、大塩は「朝岡より放火いたし、裏手の松平下総守邸内の東照宮を焼き、仲間の与力町などを火矢にて焼立てます。夫れから十丁目へ出て、天満天神の社の宝庫等に火を掛け、難波橋迄来た。」とあるなど大塩が建国寺を攻撃して焼いたとする史料は多い。しかし、これらはいずれも風説を記したもので直接現場に居合わせた者の証言ではない点が気になるところである (12)。いかなる理由があるにせよ、江戸時代に神君徳川家康を祀る社寺に砲撃を加え、炎上させると言うことはたいへんなことである。大塩が忠実な幕吏であったことを考えるとその疑問は尚更のことである。大塩はこれらの史料の通り建国寺を攻撃の目標としたのだろうか。
二月十九日早朝、大塩邸での動向を直接体験した者の史料としてはまず大塩与党として邸内にいた大井正一郎、庄司儀左衛門、橋本忠兵衛、白井孝右衛門、竹上万太郎らの自白書 (13) があげられるが、ほかには南組惣年寄野里屋四郎左衛門(梅園)の口述記録『野里口伝』(14) がある。彼は二月十九日の朝、御用のため町奉行所へ行くつもりで髪月代を整えていたところ、役所から至急参上せよとの知らせがあり、「何さま大変之事有之儀と存、いまだそろへ候ハぬ髪を油も不付其まゝたばね」て東町奉行所に出頭したところ、跡部山城守から元与力の大塩平八郎が「容易ならざる企」をしているとの密告があって只今一味の一人を斬った、しかし「平八郎之敵味方企之次第何共相分らず候間、其方乍太儀平八郎宅へ罷越見届来り可申」との命令である。そこで野里屋は大塩邸と筋違の朝岡助之丞 (15) 邸の塀の陰から様子を見たと証言しているのが次の記述である。
合図と見え三ツほど打上申候、打候と鯨波之声を上申候、跡ハ十匁目位之音しきりに打申候、又平八郎座敷之軒先に何やら白きもの立かけ有之候あとにて思候得ハ旗と被存候、其中台所之方よりぶつ\/ともへ上り申候、やがて庭先之塀を内よりくづす□十人程百姓もまじり刀を提たる者も相見え助之進之塀を外よりこはし皆平八郎へ引とり棒火矢を其くづしたる所より助之進方へ打込、其跡より鑓長刀を持たる者共助之進方へこみ入申候
このあと野里屋は家人の逃げた大塩邸の隣の工藤邸に入り (16)、そこから大塩邸を窺うと中では「何やら甲冑を着たる者あちこちかけまはる様子」であったという。この信頼すべき史料に「東照宮御宮ハ御別條無之御別当□□□を打候故御別当御供申御立退御座候、御先追之声厳重にて御跡より御別当くゝり頭巾にて装束いたしぶる\/ふるへながら警護致参り申候」と言うくだりがある。つまり、大塩隊は東照宮御宮は砲撃せず別条がなかったが、別当寺である建国寺 (17) を攻撃したので住職が避難したと述べているのである。このように大塩が建国寺を攻撃したと言う件については既述のようないくつかの傍証もあり、間違いない史実であるように見える。ところが、たとえば庄司儀左衛門の「口上」には、
救民と認め候四半壱本庭上に押立、大筒四挺を車に載、格之助屋敷塀を壊、火矢を以助之丞屋敷を焼払候内、格之助屋敷江も火を掛、百姓共之内には掛矢を持、私儀ハ以前平八郎貰請同人方に預置候鎗を持、其場に有合候着込を着、先手人数に加同人差図に随、御組与力其外所々江放火又ハ人家江火を付及乱妨候
とあり、橋本忠兵衛「申口」にも、「救民と認め候四半幟壱本庭上に押立、大筒四挺を車に載セ、格之助屋敷塀を壊押出、火矢を以助之丞殿屋敷を焼払候内、格之助屋敷江も火を掛、百姓共之内には掛矢を持、平八郎差図に隨ひ致乱妨」云々とあるだけで建国寺攻撃については記していない。このほか大井正一郎、白井孝右衛門、竹上万太郎らの自白書を見ても朝岡助之丞邸に火矢を放って焼き、格之助屋敷にも火を掛けたとはあるが、建国寺を攻撃したとは記していないのである。これらの自白書はあくまで幕府側の史料で、内容や語句まで似通っており、どの程度の信頼性があるのかわからないが、幕府側としてはむしろ大塩隊が徳川家康をまつる建国寺を砲撃したとするほうが世論操作としては良いはずであるのにそれをしていないのである。これはどういうことであろうか。そこで大塩の乱が勃発した当時のことを建国寺文書「天保御遷座一件」で検証することにしよう。この文書は墨付十一丁の冊子で、このうち乱の初期状況を記した部分を引用しておく。
天保八年丁酉二月十九日朝五ツ時、始め大塩平八郎於屋敷、鉄砲四五度、其度毎ニ大勢発大音候得共、此迄日々武術稽古も致居候事故、尋常之事と相心得罷在候処、五返目ニ甚厳敷寺内鳴動建物戸障子響強ク、依之為見ニ庭前へ指出候処ニて、御書院屋根より瓦落、微塵ニ砕落居候旨ニ而持帰候故、一見之上早速御役人之内早々御出候様申遣候処、加藤宗三郎被罷出候故、右落居候品為相見候、其品三寸斗指渡し長サ四五寸、火入之大サ程之物中へ少キくだに焔硝詰込、尤其くだ大小有之、何本も集め、其上を紙ニ張、其上を長サ壱間半斗有之晒之木綿半巾ニ巻、一方之口チ火消候様子ニ焼罷在候、依之加藤同道御庭廻り一見候処、三輪御社後手大塩平八郎屋敷一面之焔硝之煙り真黒ニ相見候、其内当寺台所北手柴小屋へ壱ツ落ち、直ニ火もへあがり候得共打消し、依之御組之者共大塩へ鉄砲頂更相止め候様申遣候得共、無其詮も加藤宗三郎被参候処、門を〆切不通、依而鉄砲之事申入候得者、決而 御宮へ不敬失敬不仕、此段決而御案心可被下候返答也、然し身方ニ御附被降候ハゝ御入可被下候与答へ故、引取当寺ニ打寄候面々我慢之長し乱心与相見へ候抔と申居候
二月十九日の朝五ツ時(午前八時頃)、大塩邸で鉄砲の音が四・五度し、その度に大勢が大声をあげたが、いつもの武術稽古と思っていたところ、五回目に寺中激しく鳴動、調べると書院の瓦が砕け、庭に火器が落ちていた。すぐに役人を呼んで検分したところ、三輪社の後手にある大塩邸は焔硝の煙で真っ黒。そのうち台所北手の柴小屋へ火矢が落ちて燃えたがこれはすぐに消し止めた。そこで鉄砲の丁打ち(ためし打ち)を止めるよう申し入れたが無視され、町奉行所の役人加藤宗三郎 **1 が行くと大塩邸は門を締め切って入れず、加藤が口頭で抗議したところ、「決而 御宮へ不敬失敬不仕、此段決而御案心可被下候」「然し身方ニ御附被降候ハゝ御入可被下候」との返答であったので引き取った。寺にいた者は「(大塩は)我慢之長し乱心与相見へ候」などと言い合ったという。つまり大塩は、御宮(宮寺の建国寺を含む)は砲撃しない、味方につくなら邸内へ入れと言ったのである。このあと建国寺の住職は、「東御奉行も御立退之御方可然御沙汰も内々御座候故、八ツ時(午後二時頃)比、風も西風ニ而悪敷相成 御立退ニ相成候」 (18)ということで、東照宮の御神体を捧持して生玉の北向八幡へ七ツ時(午後四時頃)に避難したのであった。つまり建国寺が焼失したのは午後のことであって、大塩の砲撃によって火災になったのではないのである。従って『野里口伝』が「別当がお供して神体が避難した。別当はくくり頭巾でぶるぶる震えながら警護していた」というのは、事実ではあるが、大塩隊が「御別当□□□を打候故(建国寺を攻撃対象としたから)」そのような結果になったのではなく、「御類焼立退」
(19)であったのである。つまり野里屋は事実に自分の想像を交えて証言したことになる。したがって既述の「塩賊騒乱記」の具体的な記事も今井克復の証言も、当時からそのような噂が風聞として囁かれていたことは間違いがないが、「見てきたような嘘」であることになるのである。しかしこのような誤った伝聞が、一方で
朝五つ時頃より乱妨相始め、居宅江火を放し(中略)一円火となし天をこがすの勢ひ、猶建国寺御宮江自分居宅より火を打込み、暫く此辺へ同勢を屯し居候由。評に曰く、御宮へ火矢打込候始終と、檄文の文面相違、天下をねらふ賊敵たる事、明鏡に照すが如く、尚又此処炎上致候時は、両御奉行共に是非御出馬有之事、必定と相謀候由に相聞ゆ (20)
【注】
(8) 『中斎大塩先生年譜』、大正九年、大鐙閣刊。
(9) 『大阪産業大学論集』社会科学編七七号、一九九〇年。
(10) 『大阪編年史』所収。
(11) 『史談会速記録』第六輯所収。
(12) 例えば今井克復は後に大塩の死骸を検分するなど事件に関りの深い人物であり、二月十九日の事件当日も跡部から呼ばれて町奉行所に駆けつける途中、天満橋の上で瀬田済之助とすれ違ったと述べているが、大塩の出撃時には大塩邸近くにはいなかった。
(13) 武士身分は「口上」、その他は「申口」という。いずれも『実録彙編』所収。
(14) 天保八年十二月、将軍家慶宣下の祝儀のため出府中の野里屋から阿部正信が「件之始末深更まで承り候物語之條々」をまとめたもの。奥書に「天保九年正月六日夜借阿部公本写得 九々翁諭丈/明治三十五年十月屋代弘賢翁の輪池叢書を以て再校了」とある。(『改訂史籍集覧』十六所収)。
(15) 史料のなかでは「朝岡助之進」になっている。
(16) 野里屋の思い違いであろう。大塩邸の東隣は空き地であり西は西田邸である。
(17) 文中では三文字分がハコになっているが、別の箇所では「御宮御別当 建□寺」とあるので「建国寺」として間違いがない。
(18) 「天保御遷座一件」
(19) 「天保御遷座一件」中扉に記された題。表紙は後につけられたものであろう。
(20) 「堀伊賀守家来筆記」(『浮世の有様』七所収)。
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**1 加藤宗三郎は忍藩家中の者か。 坂本鉉之助「咬菜秘記」その15