Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.11

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大塩の乱関係論文集目次


「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」
その1

相蘇 一弘

『大阪の歴史 第54号』』
(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1999.12) より

◇禁転載◇



  一、はじめに

 大塩平八郎が文政十三年七月に三十八歳の若さで突然辞職を願い出た理由については、彼自身「辞職詩并序」で「自分が活躍できたのは高井実徳に用いられたからであり、その高井が辞めるのだから自分も辞める」という意味のことを述べているが (1)、実のところは天保五年四月七日付の津藩儒臣平松楽斎宛書簡 (2) に「所詮要路之大官ニ無之ては十分之存寄通り出来不申ものニ候、已前吏務中ニコリ\/いたし居候」と記すように、一介の町与力の限界を痛感したことが大きな原因になったと思われる。「コリ\/」した最大の経験は文政十二年の奸吏糾弾事件であろう (3)。但し、過去にも病弱を理由に養子を迎えての退職を願って認められなかった大塩 (4)にとって、退職は「(高井)山城殿参府ニ付、思付候事ニは無之」、むしろ長年の「宿願」でさえあった (5)

 ところが、これとは全く矛盾する「大塩は高井実徳を追って出府し、久しく留まって幕府に登用されるために猟官運動をした」という説が既に江戸時代から巷間で行われていた。この説は大塩に対して一定の先入観を持つ人物が断片的な情報から想像を膨らませた産物で、幸田成友が『大塩平八郎』 (6) で否定して以来、取り上げられることもなかったが、近年強く主張する研究者が現われたため、私は辞職後の大塩の行動の検討からこれが史実でないことを証明した (7)。しかし猟官運動説までは積極的に支持しないが、大塩は幕府に登用されたいという上昇志向を抱いていたのではないかという点については、多くの研究者が一致して指摘してきたところである。すなわち天保六年正月、老中大久保忠真の人材登用策の一環として大塩が江戸に召されるとの噂があり、大塩は大変喜んだが、なぜか話が立ち消えになったことで失意し、このことが蜂起の決意に影響を与えた可能性を諸研究が示唆している (8)。しかし、一方で辞職後の大塩は多くの人々に再仕官しないことを宣言している。幕府への登用を喜ぶという態度は日頃の大塩の言動と矛盾する訳で、更にこの一件が蜂起の遠因になったということであれば、彼の人格の理解を複雑にするのである。本稿では大塩の天保六年の江戸召命一件について検証し、大塩の上昇志向、幕府に登用されなかった失意と挫折の存在について考えてみたい。


【註】

(1) 『洗心洞詩文』所収。「職は則ち微賤にして、而して言は聴かれ計は従はる、大政に関はり、衙蠹を除き、民害を鋤き、僧風を規す、豈に千歳の一遇に非ざるか。而して公の進退乃ち此の如し、義共に職を棄て以て隠を招かざるを得ず(原漢文)」とある。また頼山陽が名古屋の宗家に行く大塩に贈った「送大塩子適起尾張序」や天保四年六月大塩が佐藤一斎に宛てた真文書簡にも辞職の理由を記している。
(2) 津市教育委員会蔵
(3) 大塩が解決した「三大事件」の一つで、西組与力弓削新右衛門らを粛正した事件であるが、実際には大塩が「辞職詩并序」に「其の汪連する所、要路の人の臣僕に及ぶ」と記すように単なる大坂の一事件ではなく、幕府中枢にまで波及する大疑獄事件であった。大塩はこれを高井の命により探索したが、結局は追求の手を要路の人物にまで及ぼすことができなかった。
(4) 大塩波右衛門宛、文政九年十一月二十九日付別啓(大塩家蔵)に「先年私病身ニ付、未老年ニおよひ不申候得共、退番之宿願有之候得共、未実子無御座ニ付、乍失敬御子息様之御内、先祖之御縁を以、養子之儀一寸御内談およひ候節、尊報被下候処、未私壮年之儀、養子等者不差急者、寛々養生加へ可然趣ニ頭共之内意有之、被差留候」とある。
(5) 天保三年(日付欠)荻野四郎助宛の書状(幸田成友『大塩平八郎』所収)に「宿願之通三年已前御暇乞退身仕候、山城殿参府ニ付、思付候事ニは無之、邪宗門吟味之節、京都同列之者とも兼而談候事有之義は難取失、士之一言泰山磐石よりも重く、前以御暇内願罷在候義も及御聞候通ニて」とある。この史料にも「御暇」を「内願」したことがあると記している。
(6) 明治四十二年、東亜堂刊。昭和十七年改定、創元社刊。
(7) この説は『大塩平八郎建議書』(平成二年、文献出版)解説のなかで校訂者の仲田正之が展開した。この説についての拙稿は「大塩平八郎の出府と『猟官運動』について」(思文閣出版から平成十二年春刊行予定の『大坂城と大坂の町』に所収)
(8) 詳しくは後述するが、石崎東国『大塩平八郎伝』(大正九年、大鐙閣)、徳富猪一郎『近世日本国民史 文政天保時代』(昭和三年、民友社)、岡本良一『大塩平八郎』(昭和三十一年、創元社)、宮城公子『大塩平八郎』(昭和五十二年、朝日新聞社)などこれまでの主な大塩研究書は殆どこの「天保六年の江戸召命一件」に言及している。


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石崎東国「大塩平八郎伝」その43


「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」目次その2

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