Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.12

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大塩の乱関係論文集目次


「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」
その2

相蘇 一弘

『大阪の歴史 第54号』』
(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1999.12) より

◇禁転載◇



  二、「大久保忠真の江戸召命」説

 天保六年の大塩の江戸召命一件に触れた最も早い研究は大正九年の石崎東国『大塩平八郎伝』である。石崎はこの書の天保六年条に

と記し、証拠として大塩が高槻藩の門弟高階子収と芥川思軒に宛てた天保五年十二月十四日付の書簡と、旗本新見正路の家臣武藤休右衛門宛の天保六年正月十五日付の書簡を掲げた。そして、誰の推挽によるかは不明だが、小田原侯すなわち老中大久保忠真は元大坂城代であり、ほかにも幕府中枢には元大坂町奉行で大塩をよく知る新見正路がいることを挙げ、武藤宛書簡の存在によって大塩の召命は殆ど確定的であるとした。そして大塩が武藤に「只鄙人独歩ニて直様参府可致積ニ候」と書いたことにつき「単身独歩万死ヲ期シテ国家ノ為ニ赴カントス、意気壮ト謂フベキ」であり、この江戸召命が「其侭沙汰止ミトナレルハ先生ノ為ニ国家ノ為ニ痛嘆スベシ」と結論づけた。

 次いで昭和三年、徳富蘇峰は『近世日本国民史 文政天保時代』で、既掲の平松宛書簡を引用して「彼は決して草莽に空言を吐くを以て、自ら安ずる者ではない。(中略)彼は如何にして、要路の大官たるを得べき。彼の胸中に鬱積したる不平の気分は、固より此に存する」と、大塩には幕府に用いられたいという上昇志向があったことを認めている。そして「天保六年、彼歳四十三。当時老中の首席小田原城主大久保加賀守忠真、大塩を召して政治を問はんとするの意あり。此れより先き儒者古賀小太郎(庵)をして彼の対策を徴せしめた。大塩は『真知聖道実践』の一篇を草して、之を古賀小太郎に致した」と記し、更に武藤宛書簡の「江戸表より鄙人を被召候外説」以下を引用して、「彼は実に此の如く伯楽の一顧を待つていた。併しそれは空ら恃みであつた。幕府は決して眇たる一与力の隠居たる彼を、相手としなかつた」としている。この徳富蘇峰の「大久保忠真による大塩の江戸召命」に関する記事は石崎説をそのまま踏襲したものである。

 岡本良一は『大塩平八郎』(昭和三十一年)で「失意」という章を設け、同じく武藤宛書簡の「江戸表より」以下を引用し、「ここには大きな期待に胸をはずませる平八郎の姿がはっきりと認められる」、「幕政の中枢にある時の老中主座が、破格にも一介の町与力の隠居を召致して、その経綸を問おうというのである」と述べ、この件が立ち消えたことについては、「卓越した才幹を自負しながらも、それを治国済世に役立てるべき実践の場から閉め出され、むなしく市井に学を講じながら、うずもれねばならぬ自己を思う時、彼の心境はまことに暗然たるものがあったと言わねばなるまい」と述べている。

 また、「いつの頃からか大塩が江戸出府につき、秘めた、だが強い念願をもっていたと考えたい」とする宮城公子は、その著『大塩平八郎』(昭和五十二年)で「江戸出府のこと」という一章を設けてこの一件に触れ、やはり武藤宛書簡の「江戸表より」以下を引用して「大塩の江戸出府もこの大久保忠真の人材登用策の一つであったと思われる」と記し、「だがなぜか大塩のこの長年の夢は実現しなかった」と結んだ。

 このように、これまでこの一件について異説を唱えた研究はなく、大久保による大塩の江戸召命説はいわば定説になっていた。私も『新修大阪市史』第四巻「大塩の乱」(平成二年)で触れ、「この一件は結局噂だけに終わる。期待が大きかっただけに大塩の失望も大きかったに違いない」と記した。

 大塩の天保六年江戸召命一件が通説通りならば、二つの点で重要な問題を含む。その一つは、大塩の日常の言動との矛盾である。大塩は天保四年に刊行した『洗心洞箚記』に、辞職後楽隠居の身分にありながら「夙に興き夜に寝、経籍を研し、生徒に授」けるのは好事、糊口、詩文、博識、声誉のためではないとしたあと「再び世に用いらるるを欲せず」と記しており、多くの知人にも再仕官しないことを明言している。すなわち、辞職直後の文政十三年九月、二千五百石の旗本野一色家からの仕官の誘いを断ったときには、九月十二日付の秋吉雲桂宛の書簡 (9) に「僕も素より決心、最早俗吏之伍ニ可再陥心更無之」と述べている。そして再び十二月十三日にも同人に宛て「自分に怨みを持つ者などが再就職に関心を持ち妨害に腐心していると聞くが、自分は浮世の事には関心がない」 (10) と述べている。また天保四年六月五日付頼聿庵宛の書簡に「世上之富貴利禄之望更無之」 (11) 、津坂摂脩にも天保四年六月十一日「隠退爾後聖人之道ニてこの長尺の躯殻棄擲いたし可申積」 (12) 、天保四年六月二十一日、丹後田辺藩老の牛窪謙下に『洗心洞箚記附録』を呈したときも「右ニて僕世上之俗務に心無之事御推察可被下候」と述べている (13)。更に伊勢の国学者足代弘訓には、天保四年十一月二十一日付書簡で「時勢を察し致隠退候付、誰薦挙有之候共容易ニ起復不致決心」(14)、天保四年十一月津藩儒臣の平松楽斎からこの上勤めるのは「馮婦之攘臂下車之類」と言われたときにも「貴喩馮婦の義符合仕り候」と同意している (15) 。更に天保五年、江戸の岡本花亭が面会を求めていると聞いたときには平松に「最早再用抔願念毛頭無之(中略)東武ニは不佞参候様申越候人々も御座候得共、爰十年斗は沈潜不参積ニ御座候」 (16) と出府をはっきりと否定している。このように大塩は辞職直後から一貫して再仕官を否定しつづけているのである。その大塩が「単身勇躍江戸に乗り込もうとする。この大塩の矛盾をどう解せばいいのだろう」 (17) とは当然抱かれてよい疑問であった。大塩は旗本や大名ではなく幕府からの誘いだから受けるのだろうか。

 二つ目は、天保六年の江戸召命が立ち消えになって大塩は失意し、これが後年蜂起を決意させる原因の一つになったのではないかとされる問題である。通説通りなら確かにこのときの失意は大きかった筈で、蜂起の決意に何らかの影響を与えたことは間違いがないと思われる。天満組惣年寄今井克復などは、明治二十五年の「史談会速記録」第六輯で「(大塩は)自分が頼りに採り用ひられました所から、関東よりも召出されまして、一廉の役人に採用せられたいが一念で、夫れが出来ぬところから、常に政事を批判いたしまして、其ツゞマリは全くは其一念から、アノ事が起つた様に思はれます」と話しており、『大塩平八郎建議書』校訂者の仲田正之は平成五年三月十三日、大阪人権歴史資料館の「大塩平八郎と民衆」展に因んで行われたフォーラム“検証「大塩の乱」“で「猟官運動に失敗して自棄になって乱を起こしたことが人格として問題」という意味の発言をしている。また、宮城は「与力辞職当時から、江戸出府の噂があり、彼もその意向がなかったとは断言できない」 (18) と記すが、天保六年の江戸召命説は、「大塩は辞職後に高井を追って出府し仕官運動を行った」という猟官説と関連し、同説を援護するものとなる可能性も含んでいるのである。


【註】

(9) 大阪市立博物館蔵。秋吉雲桂は京都の西洋医で頼山陽、小石元瑞とともに大塩の京都交友者の一人。
(10) 同上。「尊老及山陽子御勧ニて再仕之情欲ハ弥益破除、内外之俗事一々愚息へ付候、実以閑逸ニ相成居申候、知己之深情兼て保身之計も有之候事ニ付、心事汚厳聴申候、世ニハ怨家奸党なきにあらす、再職ニ就やと関心種々妨礙ニ工夫費候ものも有之由、時々耳ニ入候得共、禍福生死之説者、於家学聊了得いたし候上、右様浮世之事ニハ頓と念無之故、諸事侘人之義の様ニ思、心内胖ニ御座候」とある。
(11) 頼聿庵は頼山陽の長子で安芸藩儒臣。本書簡は頼家蔵。「一斎老へ贈候尺牘、未有返簡候へ共、尺牘社弟共早既ニ上木いたし、家塾ニ伝示候付、是又一冊進呈仕候、右ニて僕之志猶又御承知可被下候、世上之富貴利禄之望更無之、此上猶忘了禍福生死之実意真用申候積也」とある。
(12) 個人蔵。津坂拙脩は津藩儒臣の津坂東陽の子
(13) 『洗心洞箚記附録』は天保四年六月の佐藤一斎宛の大塩真文書簡(原本は大阪市立博物館蔵)を家塾で刻したもの。牛窪宛の大塩書簡は舞鶴市教育委員会蔵。「箚記附録者、東都佐藤一斎老へ尺牘、祭酒へ観覧ニ廻し候様申遣し候て、箚記相送候を子弟上木いたし候義ニて則附録丈進上仕候、御一覧、右ニて僕世上之俗務に心無之事御推察可被下候」とある。
(14) 大坂市立博物館蔵。「不肖も最初より之隠者ニ者無之、一旦仕路ニ罷在、聊骨折いたし時勢を察し致隠退候付、誰薦挙有之候共容易ニ起復不致決心ゆへ箚記私刻、不肖之志を述、二所へ献納仕候儀ニて」とある。
(15) 天保四年十一月二十日付平松楽斎宛書簡。津市教育委員会蔵。「先頃尊兄御喩ニハ不肖知己之明君に不逢に、此上相働候ハゞ馮婦之攘臂下車之類ニ候間、深沈相養候之様縷々御喩し、何様不肖ニ候得共、最初よりの隠者と違ひ、酔世界を嘆し、一旦身を振ひ、生を捨、吏事相働候而時勢を察し退き候義ニ付、此上如何様之事候共、容易ニ仕路ニハ難出故、洗心洞箚記私刻、只道を楽、不見是而無悶、確乎不可抜之潜龍を相学候外なしと決心候処へ、貴喩馮婦之義符合仕候」とある。
(16) 天保五年四月七日付平松楽斎宛書簡。津市教育委員会蔵。
(17) (18) 宮城公子前掲書


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石崎東国「大塩平八郎伝」その75
「今井克復談話」その1


「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」目次その1その3

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