相蘇 一弘
『大坂城と城下町』
(思文閣出版 2000) より
◇禁転載◇
はじめに 一 大塩は高井を追って出府したか −今井克復説批判− 二 長尾才助書留について 三 天保二年春、大塩の出府 おわりに
これまで大塩が辞職直後に高井実徳を追って出府し、久しく留まって猟官運動を行ったという説について検討してきた。今井克復の談話は数十年も前に聞いた話を記憶をたどって増幅させたものであり、長尾才助書留も大塩の参府に関する核心部分は推測に過ぎないことがわかった。そして高井が退職した経緯や辞職後の大塩の行動を検討することによって、上記の史料が示唆する時期には大塩は江戸に行ってはいないことを証明した。また大塩は天保二年の春に出府しているが、目的は高井への猟官運動ではなく林述斎の訪問であり、文政十二年の「奸吏糾弾事件」に関して林に相談したいことがあったのではないかと推定した。
実は大塩は隠退について、天保三年(日付欠)荻野四郎助宛書簡のなかで「宿願之通三年已前御暇乞退身仕候、山城殿参府ニ付、思付候事ニは無之」と述べている。文政九年に病弱から養子を迎えて退職することを願って認められなかった大塩にとって、退職はむしろ長年の「宿願」であった。また、大塩は辞職後、多くの知人に再仕官しないことを宣言しており、その一方で猟官運動をしたとは考えられないことである。知行合一、すなわち言行一致を重んずる陽明学者である大塩が、成功すればすぐに矛盾がわかってしまう猟官運動をする訳がないのであるが、大塩自身の言葉では説得力が無いと考える向きがあるので、大塩自身の言葉を援用するまでもなく彼の行動の軌跡から、辞職後大塩は高井を追いかけて出府していないことを証明したのである。
大塩が辞職直後に高井を追いかけて出府し猟官運動をしたという説は、「乱の首魁」である大塩に対して悪い先入観を抱いていた人物が、大塩の辞職が高井の退官と機を同じくしていること、辞職後江戸に行っていること、天保四年に富士登山をしていることなど、断片的な情報によって想像を膨らませた結果生まれたものであろう。死人に口なし、話には尾鰭が付いた方が面白いに決まっており、まさに幸田が言うように「歳月の経過は事実の添加或は虚構を生ずる」と思われる。
このように大塩は辞職直後に猟官運動をしていないことがわかるのであるが、大塩の仕官についてはなお別にも問題がある。大塩は幕府に登用されたいという上昇志向を抱いており、「天保六年の正月、老中大久保忠真の人材登用策によって江戸に召されるという新見正路からの情報を得て大塩は大いに喜んだが、結局は実現には至らず失望した」という説がある。この説は大正九年に石崎東国が『大塩平八郎伝』で唱えたもので、以来多くの研究者によって踏襲され、いわば定説と言ってよい状態になっていた(43)。もしこの天保六年の江戸召命一件が通説通り、大久保の人材登用に関係するならば、大塩の猟官運動の結実ととれないこともなく、大塩の猟官運動説を補強するものとなり得るものであった。またこの一件が立ち消えになって失意を抱いたことが後の蜂起に繋がったという今井克復の談話の史料的な説得力を主張することも可能ならしめるものであった。更には、辞職後の大塩は再仕官する気持ちはないと公言していることと矛盾することになり彼の人格にも疑問符が打たれる問題でもあった。しかし、実際はこの話は大久保の人材登用などではなく、大塩と古賀庵を後ろ楯にした古賀大一郎(若皐)との学問論争のなかで、大塩が昌平黌批判と取られかねない発言をしたことに端を発した寧ろ大塩糾弾の召命話であった。天保六年の大塩召命一件は、「大塩の猟官運動」に繋がる話ではなかったのである。この一件については拙稿「天保六年、大塩平八郎の『江戸召命』について」(44)に記したのでそちらを参照頂きたい。
【注】
(43) 石崎東国『大塩平八郎伝』、徳富猪一郎『近世日本国民史 文政天保時代』、岡本良一『大塩平八郎』、宮城公子『大塩平八郎』などこれまでの主な研究書は殆どこの天保六年の大塩の「江戸召命一件」に言及している。
(44) 『大阪の歴史』五四号。大阪市史編纂所、一九九九年十二月。
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