Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.1.6

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について」
その6

相蘇 一弘

『大坂城と城下町』
(思文閣出版 2000) より

◇禁転載◇



三 天保二年春、大塩の出府 (2)

 このように大塩は辞職翌年の天保二年春に江戸に行っているのであるが、いつ大坂を出、江戸にはどれぐらいの期間滞在しているだろうか。大塩はこの年の三月四日、河内国交野郡尊延寺村(現枚方市)の門弟深尾家に滞在中で、深尾翁より贈られた生雉を『孟子』梁恵王篇第一上の「君子は庖厨より遠ざかる」という故事に従って放ち、代わりに詩を賦して翁に贈っている(34)。その後大塩が深尾家に何日滞在したかは不明であるが、一旦大坂に戻った筈であるから、江戸への出発は三月十日近くになった筈である。大坂から江戸までは約二週間かかるから(35)、江戸到着は廿日過ぎ、そして帰途の四月六日の夜には宮(熱田)にいたのであるから、逆算すると三月下旬には江戸を出立したことになる。つまり大塩の江戸滞在はせいぜい一週間程度の短期間であったことがわかる。

 では大塩は何の用事があって江戸に行ったのだろう。大塩はさきの四月六日付波右衛門宛書簡で「私義も内々問楽同事ニて先頃より東都へ罷越」と、出府の目的を述べている。「問」は「訪問」、「楽」は「楽しみ」、「同事」は「同じこと」の意味であるから、「内々に、人の訪問と楽しみを兼ねて」ということになる。もちろん訪問先は高井実徳ではない。では誰を訪ねたか。ここで想起されるのが既掲の佐藤一斎宛書状巻の奥書に一斎が「往年渠来江都乞謁故林祭酒述斎先生」と記していることである。この文章から限定される時期は既述のように、大塩の隠退後で天保四年六月までであるから、天保二年三月なら条件に合う。大塩は天保二年三月に密かに林述斎に会うために、極く短期間江戸に行ったのである。

 上記大塩波右衛門宛書簡に「内々」と記す様に大塩のこの出府は内密であった。大塩は先の一斎宛真文書簡で「私は今職を辞して家に居り、東行して先生のおそばに侍るのは自在のようですが、それを遂げることはできません。どうしてかと申しますと私讎が国の内外に充ちているので、隠退して時を俟っていましたが、時を俟っても終にその時が来ません」という意味のことを述べている(36)。ここに記す私讎(私讐、個人的な恨み)とは何か。これは大塩が「辞職詩并序」で

と述べる、いわゆる大塩の三大事件の一つ「奸吏糾弾事件」による私讎を指している。この事件は実は「奸吏糾弾事件」という表現で片づけられるような大坂の一事件ではなく「其の汪連する所、要路の人の臣僕に及ぶ」という大疑獄事件であった。大塩はこの事件を高井実徳の命をうけて探索し、幕府の要職にある者が不正無尽を行っていることを突き止めたが、結局は弓削新右衛門や八尾屋新蔵などの末端関係者や大坂破損奉行など一部の処刑に止まったのであった。こうしてこの事件では幕府中枢にまで追求の手が及ばなかったが、しかしなお世上には大塩に対する怨みが充ちていたのであろう。大塩は辞職後早く江戸に行って林述斎に会いたかったのだが、事件のほとぼりが冷めないうちは危険で堂々とは行きにくかったのである(37)。尤も大塩は宿願の御弓拝見を波右衛門に申し出た文政十三年九月十六日付の書簡(38)に「拝謁之上緩々高話拝聴、積年之鬱相晴可申と相楽居候、其上品ニ寄、日光御宮へ拝参、帰途東都へも相廻り、彼是知音之方を相訪可申積ニ御座候」と、状況によっては日光を参拝し、帰途江戸に寄って「知音の方」を訪ねたいと思っていたらしいが、一旦帰坂したために時期を失い、それで暖かくなった天保二年の春、密かに極く短期間の予定で出発したのであった。このことで辞職直後に大塩が江戸訪問の意思があったことがわかるが、約束があるなどどうしてもこの時期に行かなければならない事情があれば、滞在途中の名古屋から一旦わざわざ大坂に戻るというような行動はとらなかった筈である。是非一度江戸に行って林述斎に会いたいが、まあ近いうちにというつもりであったのだろう。つまり、これは江戸行きが猟官運動などという切迫した要件ではないことを語っている。それでは何故大塩は、是非一度林述斎に会いたいと思ったのだろうか。

 大塩と林述斎との関係は、文政十年に林家が大坂で無尽による金策を企てていることを聞いた大塩が、予て自分への援助を約束していた富裕門弟に「此後世話を掛ヶ不申候由之趣意」(39)によって醵金させ、千両という大金を用立てて以来のつきあいである。大塩は幕府の基本精神である儒学を以って代々幕府に仕える林家が不正無尽を行うことの非を述斎に説いて回避させたのであろう(40)。そしてこののち二人の間柄は、大塩が「祭酒林公亦愛僕人也」(41)、「林祭酒御内々御心易御座候」(42)と公言するほどの仲になったものと推定される。

 辞職後の大塩が是非述斎に会いたいと思った理由については推測の域を出ないが、おそらく与力の限界を悟らせ、辞職を決意させる真の理由になったと思われる文政十二年の事件について話して置きたかったのではなかろうか。そして、機を見て武家が無尽を企画することの非を幕府中枢の人々に説くように求めたのではないだろうか。大塩が潜伏中の三月、箱根で発見された二月十七日付の老中宛書簡で、大塩は林述斎について触れ、「同人義累代聖賢之道を学候家柄ニ付、御諌言も被申上候身分と存」と述べ、続いて「先年取結候言葉も有之候ニ付、右義懸合候義ニ御座候」と記している。大塩と述斎の間での「先年取結候言葉」が具体的にどのようなものであったかはわからないが、「言葉」を「取り結」んだのは天保二年三月、この大塩の江戸行の時であったと推測される。

 以上のような状況から、この内密の出府で大塩が佐藤一斎を訪問するわけには行かなかったことは察せられるが、佐藤一斎から見れば、わざわざ江戸に来て林家を訪ねながら、邸内に住む自分の所には来なかった大塩については、後に真文書簡で「慕ひて之を悲しみ、悲しみて之を慕ふ、孰か僕の志の先生に在るを知らん哉」と言われても、疑問と不信感を抱かざるを得なかったのは当然であった。その結果、一斎は真文書簡を送ってきた大塩に対し、同じく真文で答えるべきところを俗文でのみ答えるという非礼を敢えて行ったのであった。

 ところで、先の天保二年四月六日付の波右衛門宛書簡のなかで「当秋歟又者来春之内ニ者又々東行可仕」とあるが、再度の大塩の出府がこの年の秋に実現した可能性は少ない。


【注】
(29) 佐藤一斎宛の大塩自筆真文書簡原本は大阪市立博物館蔵。原文は「僕今乃辞職家居、如宜東行侍函丈自在然、然而不能遂其事、又何耶、以私讎充斥乎州内外、蠖屈乃俟時、俟時而終無其時、則聞 先生年既踰六十、而僕雖四十又一、体孱病多、安知無失遭遇之期哉(僕今は乃ち職を辞して家居し、宜しく東行して函丈に侍すること自在なるべきが如く然り。然り而して其の事を遂ぐる能はざるは、又た何ぞや。以私讎の州の内外に充斥するを以て、蠖屈して乃ち時を俟てり。時を俟ちて終に其の時無く、則ち先生の年既に六十を踰えたるを聞く。而して僕は四十又一と雖も、体は孱く病多し、安ぞ遭遇の期を失ふこと無きを知らん哉)」
(34) 北村家蔵(大阪市立博物館「大塩平八郎展」図録に写真掲載)の七絶詩の詞書に「予有故去秋致仕而遂為世外人、問山尋水游衍僻壌遐陬、故有寓尊延寺邨深尾翁宅、一日翁贈予生雉、生殺実在我掌握、甞聞君子遠庖厨不忍視之而食之、終開樊篭放鳥賦詩留於其家言 天保歳次辛卯上巳後一日 浪華大塩後素」とある。
(35) 文政十年、大塩の友人の間確斎は四月十五日に大坂を出、二十八日に江戸に着き、約半年間の滞在ののち、同年十月二十三日に江戸を出立、同十一月八日に帰坂している。行きは十四日、帰りは十六日かかった計算である。
(36)(29)参照
(37) 実際初めて名古屋の本家を訪問した旅行でも「畿内ならびに江州辺などにては私の名前抔申し通り候ては、これまで劇しき公務相勤め候故に哉、種々の浮評相立ち」身の危険を感じているので「内実途中不安心の義も御座候故、門人ども召し連れ」ており(文政十三年十月八日付、大塩波右衛門宛大塩書状)、おおっぴらに江戸に行くのは更に危険を伴うと思われたことであろう。
(38) 石崎東国『洗心洞尺牘集』所収
(39) 『大塩平八郎建議書』所収の八月廿五日付島村兵助宛の坂井左近書簡
(40) 拙稿「大塩の林家調金をめぐって」(「大塩研究」第三七号)参照
(41) 天保四年六月付佐藤一斎宛大塩平八郎真文書簡
(42) 天保五年九月五日付、古賀大一郎宛大塩平八郎書簡写(個人蔵)


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相蘇一弘「大塩の林家調金をめぐって


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