天保の飢
饉
窮民の救
済
稗倉
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治れる世にも免れ難きは、饑饉の患になん有りける、其患、何時来りぬべ
きとも計り難けれども、二三十年より四五十年の間には、必ず其例有る由、
識者の云へる所なり、天明の饑饉より以来、五十年計りを経て、天保癸巳・
丙申・丁酉と打続き、五穀稔らず、天下の青人、草幾万人か失せしこと、
人の見聞きぬる所なり、癸巳の年は、君初めて水戸に到り給ひし折なれば、
御自ら其職々に仰せられ、貧しき民を賑はし給ふ、此年八月朔日、大風吹
きて、領中の民屋一万二千軒余、 其中八千三百軒は残無く倒れ、三千七
百軒は半ば潰れぬる由、幕府に聞上げたりき、 或は倒れ、或は破れ、目
も当てられぬ様なれば、君、殊に若干の財を出して救ひ給ふ、されども、
五穀稔りしかば、大凶年と云ふ計りにはあらず、申の年は五月・六月の頃、
日々空かき曇り、艮の方より冷かなる風吹来りて、其気候二月頃の如く有
りければ、五穀稔らず、天下なべて飢に悩める中にも、関東の国々は、い
と切なりける、或日、君、登営し給ふ時、御駕籠の内より飢ゑたる民の斃
れ居たる様を御覧じて、
三家の君、出で給ふ時は、其前日に、其職々人々、君の過ぎ給ふ可き道
を廻り、汚れたる物抔有るなば、巷々の辻番にその由を云ひて、払去ら
しむ、俄に去り難き時は、道を更へて過ぎ給ふに、人の屍は更なり、犬
猫の屍たりとも、御目に触れぬる事無き例なるに、此年は此処にも彼処
にも飢民倒れ居て、道を更へ給ふ事も成し得ざれば、御駕籠の中より御
覧ぜられたるなり、其時餓 の多き事を知るべし、屋形に帰り給ひ、有
司を召して宣ふ様、貴きも賤しきも、人は同じ人なるに、如何で飢に悩
みて斃れぬる様を見るに忍びんや、我領中の民、一人たりとも、夢々飢
やすべからず、国中に、米穀尽きて飢うるは止む事なけれども、片へに
は富める者、若干の穀を蓄へながら、片へには貧しき者餓死をするは、
政事の悪しきに依れりと励し給ひ、郡奉行に御書下し給はりて、其由を
仰せ給ふにぞ、郡奉行も殊に力を尽して、是れを救ひ、或は稗倉を開き
て、これを賑はし、稗倉は昔義公の始め給ふ所にて、代々の君、是れを
継ぎ給ひ、中納言の君に至り、殊に夥しく成りぬ、凶年の備くさ/゛\
有りと雖も、米穀を蓄ふれば、五年・七年に一度、旧きを出して、新し
きに更へざる事を得ず、人々凶年の患を忘るゝに随ひ、自ら利欲の説起
り、徒に米を積み蓄へんよりは、是を人に貸出しし、一とわたりはさる
事の様なれども、後には証文・手形など云ふ者のみ重りて、実の米穀は
乏しくなりぬる類、又いと拙きに至りては、凶荒の備よりもまの当り財
用乏しく、堪へ難き為め、米穀を売りて金銀となし、徒に費し捨つる類、
無きにともあらず、然るに此稗倉の法は、年々定れる額有りて、是れを
倉に充てぬる事にて、旧きと新しきとを更ふる事もなく、又平年には、
稗の価は尤も賤しき者なれば、人々利欲の説をも企てず、凶年に出し用
ふれば能く飢を凌ぎて毒なく、百年の久しきを経ても、其味更らず、実
に凶年に備ふる良法と云ふべし、此稗倉、領分三里四里を隔てゝ、所々
に数多有り、此迄幾度か飢饉の患有りしに、貧しき民食を得て、死を免
るは義公の御恵ぞかし、
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癸巳・丙申・
丁酉
4年・7年・
8年
艮
(うしとら)
東北
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