Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.15

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「飢饉を救ひ給ふ事」 その1

藤田東湖

『藤田東湖選集』「常陸帯巻之二」高須芳次郎編 読書新報社出版部 1943 より


◇禁転載◇

一部読点を追加しています。
飢饉を救ひ給ふ事 (1)管理人註


天保の飢
饉





























窮民の救
済








































稗倉

治れる世にも免れ難きは、饑饉の患になん有りける、其患、何時来りぬべ きとも計り難けれども、二三十年より四五十年の間には、必ず其例有る由、 識者の云へる所なり、天明の饑饉より以来、五十年計りを経て、天保癸巳・ 丙申・丁酉と打続き、五穀稔らず、天下の青人、草幾万人か失せしこと、 人の見聞きぬる所なり、癸巳の年は、君初めて水戸に到り給ひし折なれば、 御自ら其職々に仰せられ、貧しき民を賑はし給ふ、此年八月朔日、大風吹 きて、領中の民屋一万二千軒余、 其中八千三百軒は残無く倒れ、三千七 百軒は半ば潰れぬる由、幕府に聞上げたりき、 或は倒れ、或は破れ、目 も当てられぬ様なれば、君、殊に若干の財を出して救ひ給ふ、されども、 五穀稔りしかば、大凶年と云ふ計りにはあらず、申の年は五月・六月の頃、 日々空かき曇り、艮の方より冷かなる風吹来りて、其気候二月頃の如く有 りければ、五穀稔らず、天下なべて飢に悩める中にも、関東の国々は、い と切なりける、或日、君、登営し給ふ時、御駕籠の内より飢ゑたる民の斃 れ居たる様を御覧じて、  三家の君、出で給ふ時は、其前日に、其職々人々、君の過ぎ給ふ可き道  を廻り、汚れたる物抔有るなば、巷々の辻番にその由を云ひて、払去ら  しむ、俄に去り難き時は、道を更へて過ぎ給ふに、人の屍は更なり、犬  猫の屍たりとも、御目に触れぬる事無き例なるに、此年は此処にも彼処  にも飢民倒れ居て、道を更へ給ふ事も成し得ざれば、御駕籠の中より御  覧ぜられたるなり、其時餓の多き事を知るべし、屋形に帰り給ひ、有  司を召して宣ふ様、貴きも賤しきも、人は同じ人なるに、如何で飢に悩  みて斃れぬる様を見るに忍びんや、我領中の民、一人たりとも、夢々飢  やすべからず、国中に、米穀尽きて飢うるは止む事なけれども、片へに  は富める者、若干の穀を蓄へながら、片へには貧しき者餓死をするは、  政事の悪しきに依れりと励し給ひ、郡奉行に御書下し給はりて、其由を  仰せ給ふにぞ、郡奉行も殊に力を尽して、是れを救ひ、或は稗倉を開き  て、これを賑はし、稗倉は昔義公の始め給ふ所にて、代々の君、是れを  継ぎ給ひ、中納言の君に至り、殊に夥しく成りぬ、凶年の備くさ/゛\  有りと雖も、米穀を蓄ふれば、五年・七年に一度、旧きを出して、新し  きに更へざる事を得ず、人々凶年の患を忘るゝに随ひ、自ら利欲の説起  り、徒に米を積み蓄へんよりは、是を人に貸出しし、一とわたりはさる  事の様なれども、後には証文・手形など云ふ者のみ重りて、実の米穀は  乏しくなりぬる類、又いと拙きに至りては、凶荒の備よりもまの当り財  用乏しく、堪へ難き為め、米穀を売りて金銀となし、徒に費し捨つる類、  無きにともあらず、然るに此稗倉の法は、年々定れる額有りて、是れを  倉に充てぬる事にて、旧きと新しきとを更ふる事もなく、又平年には、  稗の価は尤も賤しき者なれば、人々利欲の説をも企てず、凶年に出し用  ふれば能く飢を凌ぎて毒なく、百年の久しきを経ても、其味更らず、実  に凶年に備ふる良法と云ふべし、此稗倉、領分三里四里を隔てゝ、所々  に数多有り、此迄幾度か飢饉の患有りしに、貧しき民食を得て、死を免  るは義公の御恵ぞかし、





癸巳・丙申・
丁酉
4年・7年・
8年
















(うしとら)
東北

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