Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.2.10

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大塩の乱関係論文集目次


「宇 津 木 矩 之 丞 臨 終 の 実 況」

原 口 令 成

『陽明学 第15号』 陽明学会 1910.1 所収



適宜改行しています。


世人は知る 矩之丞氏は大塩平八郎氏が事を挙る際 其門人等の為め 大阪の寓宅に於て厠の内に槍もて突き殺されたりと知る

余も亦 嘗て左様に心得たりしが 其実多少違ふ所あり

余は今より七年前まで長崎に僑居したりしが 其頃 同港引地町に 老先生と仰がれたる碩学の老翁あり 翁の学は統を王文成公より引来る徳高く 詩文にも優れ 且 書道にも通達し 董其昌の真髄を得て 気品甚だ高し

余は屡々謦咳に接して益を請ふことあり そも翁は 名を岡田恒庵と云ひ 号を篁所と称す

一日談偶 大塩中斎の高弟宇津木矩之丞氏の事に及べり

翁 徐ろに語て曰く 宇津木先生は江州彦根の人なり 此地に来て家塾を起し 子弟を集て教授せり 余は十七歳の時 贄を執て先生の門に入る 知行合一の説も此に初めて聞くことを得たり 先生は沈勇寡言、思慮最も深し

幾ならずして 俄に家塾を撤し 大阪に帰らんとす 門生らその何の故なるを審にせず 只先生に別れを惜み 学海の方針を失はんことを悲みて 惜く所を知らず

余は当時十八歳 先生に見えて未だ久からず 実得幾許もあらざるに 忽ち師に別るゝを憾み 父は已に没して在らず 乃ち母に謀りしが 母は 先生に随ひ 大阪に到るを許す 余の喜び譬へんに物なし 直に任を治めて随身し 大阪に到り 先生の寓に在り

然るに或日 壮年五六輩 案内をも請はず 突然 玄関より躍り入る者あり 各一刀を佩び 意気軒昂 乃ち声をあらゝげ 余に向て 主人は何れにかと問ふ 只今 便に厠に入り給へり と云へば 一同飛ぶが如くに縁側に至り 師の出るを待つものゝ如し 余は之を見て 無礼極る所為なりと思ひ 姓名を問へども 更に答えず

やがて 先生厠より出で 此状を見て 諸士何事ぞと誥り給へば 其内の一人 進み来りて 大塩先生の命なりと答へ 早くも 一刀の柄に手を掛けたり 先生 言に応じて 先生の命とあらば某亦何をか云はん 暫く待たれよとて 泰然自若 手を洗ひ了り 更に頚を潔め 其首を縁側の端に差延して瞑目し給よと思へば 電光一過 先生の首は已に吸込の内に落て……… 

翁は此に至りて 落涙遺憾に堪えざる状 復た云ふ能はず………暫くして 語を継ぎて曰く 当時何事なるや委細の状を知らず 唯だ夢のやうに覚へしが 彼等 大塩先生の命なりと云ふを察すれば 事態容易ならざるべし 一刻も猶予すべきにあらずと 急ぎ短刀をもて 先生の頭髪を一握り切り取りて 遽かに寓を出で 江州に向はず 大和路指して潜行し 橋なき所に遇へば 游ぎて水を渉り 或は谷を越え 迂廻に迂廻して 六日目に辛じて彦根に達し 遺髪を先生の家に齎し 当日の状を具に告げぬ

宇津木先生が俄に長崎を出発せしこと 又彼等の為め殺害せられしことの事由は 後に思ひ合せて 初めて解し得たりと………

矩之丞氏に随身して面り 其死を見たる翁の談は 則ち此の如し 聊か博雅の参考に供す


参考
井上哲次郎「宇津木静区


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