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大塩の乱関係論文集目次


「横山文哉と島原・三之沢村」

その1

井形正寿

1995.10『大塩研究 第32号』より転載


◇禁転載◇

はじめに

 森小路村の医師、横山文哉については、天保八年(一八三七)二月十九日の大塩の乱に参加し、重要な任務につきながら、不明な点が多かった。幸田成友の名著『大塩平八郎』のなかで、横山文哉のことを肥前国三原村の出生で、文政四年以来森小路村に居住し、同十一年頃より大塩と知合いになった。乱には参加せず応援の約東もしたこともない者を連判状に署名した一事をもって牢死の死骸を塩 詰にし、磔の極刑にしたのは酷と言わざるを得ないとしている。

 これに対し斎藤町医師某が書いたといわれる『浮世の有様』には次のような記述(1)がある。

とあるから、大塩の乱当日に防火人足に紛れ込んで西町奉行所にはいり、不審な者として召捕われていたことになる。

 この話に符合することが幸田成友の『大塩平八郎』のなかに次のように書かれている。天保八年二月二日、西町奉行矢部駿河守に代って堀伊賀守が大坂に到着した。新任町奉行が着任すると、迎方の町奉行同道で市中を巡見し、最後に与力町に廻って、迎方与力の屋敷に立寄ることが慣例になっていた。迎方与力とは、新任町奉行が決まると、すぐさま、その組の与力、同心総代として与力一名、同 心二名が江戸に出向いて、町奉行を迎えに行った。その新任堀伊賀守の巡見の日の二一月十九日に大塩は決起する計略をたてた。当日の申刻(午後四時頃)に東・西町町奉行一行が迎方与力、朝岡助之丞方で休息する時を見計らい、不意に兵を挙げて、跡部山城守・堀伊賀守の両町奉行を討ち止め、市中に火を放ち、町奉行所から大塩勢の補縛に出て来る人数を喰い止め、彼等の意気を挫かんとして、両町奉行所に放火する計画をたて、白井孝石衛門と同人甥儀次郎をその任にあたらせた。その結果、西町奉行所と目と鼻の先ともいうべき松江町亀屋新次郎宅の裏手の貸座敷を借り受けることができた。しかし、平山助次郎と吉見九郎石衛門の二人の同志の裏切りによって乱の行動時間が早まり、儀次郎は約束の孝右衛門を今か今かと待てどあらわれず、大塩勢敗走の取沙汰を聞き、急に怖しくなって諸方に逃げ廻り、ついに捕らわれている。後日、右の貸座敷を調べたら、多量の火薬が床下から出てきたという。恐らく孝石衛門は乱がはやまったため、なんらかの理由で孝石衛門が自分の任務を文哉にかわらせたのではなかろうか。文哉が駆けつけた時は西町奉行所は火の手に囲まれ、防火に懸命の同奉行所へ防火人足に紛れこんで潜入したということのようだ。このような重要な任務を与えられて、その活動中に召捕られた人物に私は畏敬の興味を持ち始めた。

 いろいろ調べているうちにわかったことは、横山文哉の出生地は肥前国三原村でなく三之沢(ミツノサワ・三沢とも書く)(3)村で、現在の長崎県南高来郡有明町大三東(オオミサキ)であることを突きとめた。今も噴煙をあげているあの島原半島の雲仙・普腎岳の隣町である。ここに横山文哉の調査の発端から平成四年五月の現地訪問にいたる経緯を報告して、横山文裁の人物像にせまるよすがとしたい。


−補註−
(1)原田伴彦・朝倉治彦編『日本庶民生活史料集成』第十一巻(『浮世の有様』と以下略称。三一書房発行)四六五頁上段
(2)横山文哉が正しいようだが、文哉の出生地の肥前三之沢村の伝承では文斎などとしているので、文哉をブンサイと読んでいたのではないだろうか。『浮世の有様』三四二頁に乱参加者で逮捕されたものの書付うつしとして横山文斎の名前がでてくる。当時の聞書などには文済・文斎としているものが散見される。
(3)国立史料館編『大塩平八郎一件書留』(一九八七年東京大学出版会発行)一九二頁上段「文哉は肥前国嶋原三沢村卯平次忰」とある。


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