井形正寿
1995.10『大塩研究 第32号』より転載
私が横山文哉に目を向けた理由がもう一つある。それは、大塩平八郎天草逃避説である。このことについては『大塩研究』二七号の「秋篠昭足の追跡」で述べているので、ご参照載くとして、秋篠昭足らが大塩父子とともに天草・五稜村(御領村)の大庄屋長岡五郎左衛門を頼っで来島し、さらに長崎を経て中国に渡り、大塩父子と別れた秋篠らが長崎に帰国してからは医者として天草・島原を生
活の本拠にしたという伝承が事実であるとすれば、天草・島原と地縁血縁の者と何等かのつながりがなければならないとみた。
たとえば秋篠の妻女が天草・五稜村(御領村)大庄屋長岡五郎左衛門の身内のものであるとされていたが、追跡調査の結果、その存在は確認出来なかった。しかし大塩畢生の大著『洗心洞箚記』の贈呈先の線から、横山文哉出生地の肥前・島原藩(領主松平忠侯)の儒者川北温山が浮上した。川北温山が大塩に出した心温まる書翰は『洗心洞箚記附録抄』に各地の諸家のもと一緒に収められている。
それによると―――
「……小生、藩主に従って、しばしば京・大坂の間を往来し、先生(大塩)の高名を早くから聞いていました。己丑(文化十二年)の秋、島原からの帰りに、横山君を介して名刺を通じお会いしたく存じましたが、先生は大きな事件の取調べにあたっていられ、大変お忙しいと承わりましたので、お会いすることをやめました。それ以来、京・大坂に上ることがなく、先生の膝下で親しく教を受ける
願を果すこともできませんでした。
横山君が江戸に来ると、しばしば小生の家を訪ねて来ました。酒を飲みかわしながら、天下の人傑について大いに論じました。横山君は盛んに先生の学徳と功績を説いて関西第一の人物だと申しました……」(原文漢文)
と書翰は続くのである。書中の横山君は横山文哉であることは明らかである。
乱後の二十四日に島原藩の大坂蔵屋敷から国許の重役にあてられた書状(4)にも「此度与力大塩平八郎江一味致候由、専評判在之、三沢村筆者元七トカ申者之弟歟其辺ハ聢と不相分候得共、先年お寿代様京都江戸表へ被為入候時大坂
御共ニ被召連候、医師横山文哉、右之者兼て大塩平八郎方へ出入之趣相聞候処、此度、車台炮烙ヲ以、市中へ打込候人数之内に加り居候由、専評判仕候。尤、大塩平八郎面体ハ右文哉能以候由ニ而何も文哉ヲ平八郎と目を付候由之所、惣髪故平八郎ニハ無之由何レも相咄候旨相聞申候」とあって、大坂の蔵屋敷でも横山文哉はかなり知られた人物であったようである。お寿代様はどのような人物であったかはわからないが、川北温山がお寿代様江戸表への下向のお供に横山文哉を推挙したのではなかろうか。このように見てくると、大塩平八郎、横山文哉・川北温山との関係はよくわかる。しかし、これだけでは大塩父子の天草逃避説を首肯することはできないだろうが、天草の乱以来、一衣帯水の天草・島原には、横山・川北以外の人脈とのつながりが存在していたのではなかろうか、なんらかのつながりがあったからこそ、逃避説が生れてきたものと思う。私は五、六年前からこのような観点に立って、横山文哉と秋篠昭足の追跡調査にかかった。
一補註一
(4)大坂市立中央図書館蔵『塩逆速』第七巻上十五丁−十六丁
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