井形正寿
1995.10『大塩研究 第32号』より転載
私は以上述べてきたことから、横山文哉または、そのゆかりの者の子孫が島原藩の領内に、いまもいるものと確信するようになった。そこで、横山文哉の出生地は『大塩平八郎一件書留』で肥前国三沢村となっているので、現在地確認の作業にとりかかった。その結果、長崎県東高来郡有明町大三東であることがわかった。現地の電話帳を見ると大三東に十四軒の横山姓があったので、この十四軒と有明町教育委員会に昭和六十三年六月三十日付で照会状を出したころ、翌月の七月七日ごろに突然、有明町教育委員会(有明町史編集委員長)の吉田安弘氏から電話がはいった。その第一声は「まさに、青天の霹靂だ。大塩の乱に参加した横山文哉のことについては有明町の者はだれも知らなかった。調べてみたら確かに横山文哉の身よりの者がいる」との嬉しい知らせであった。それから、何度も手紙や電話のやりとりがあって、次のようなことがわかってきた。
○横山家は三之沢村で代々、寺小屋をやっていた。文哉の父は卯平治といって文政十三年(一八三○)七十四歳で死去。文哉の妹やすの婿養子右平治(文化五年生)が横山家を継いだといわれている。この右平治の子孫に横山清氏と横山ハルヨさんなどがおられる。
○横山文哉の出生地は有明町大三東・小春名であって国道二五一号線から山手に上った左手崖下一帯の田んぼのなかで、現在は屋敷跡に小さな観音堂の祠が建っている。ここに横山文哉の藁葺きの実家があったが、昭和三十二年の水害で流失してしまったという。それまでは右平治の子孫、横山清氏がその場所に居住していたが、いまは別の場所に移住している。実家が流失するまでは横山家の昔を偲ばせるものが数かず遺されていたようだが、いまは身丈二五センチほどの観音像が横山清氏宅に伝えられているに過ぎない。
○文哉の二男辰三郎は遠島になっていたのが明治になって赦免され、この地に帰り、政太郎と改名、明治十九年(一八八六)一月三十日、享年六十二歳で死去したと伝えられている。しかし、辰三郎は天保九年(一八三八)当時、七歳であったとの公式の記録(12)がある。したがって死亡年月日から逆算すれ ば、天保九年当時十四歳でなければならないから、同じく遠島になった長男太郎吉は当時十四歳であるとしているので、この太郎吉と混同したのではなかろうか。太郎吉についても赦免されたが、この地に帰らなかったとされている。この点については、最近新しい事実が発見されたので、今後の研究に期待したい。
○横山家累代の墓所は有明町大三東・小原上というところの共同墓地にある。この墓地に文哉の父卯平治の墓、妹やすとその夫右平治の墓などがある。
○『有明町史 上巻』が昭和六十二年三月、吉田安弘氏が中心になって発刊されていた。上巻は古代編から近世編の千ページ余の大冊であった。下巻は現代編・民俗編として編集中であったが、急拠、予定を変更して吉田氏は『近世編 続』として町史下巻に「大塩の乱に殉じた横山文哉」を組みいれられることとなった。
−補註−
(12)前(3)の『大塩平八郎一件書留』二九六頁−二九七頁(横山文哉親族名前書)
右のような現地の状況がわかるとともに、現地の熱気がひしひしと伝わってくる。その年(昭和六十三年)の八月二十日には町民センターにおいて横山文哉の追悼法要と記念講演会が開催された。講演は「儒学者川北温山にふれて」ウェスリンアン短大教授奥村孝亮氏。「横山文哉と大塩平八郎の乱」有明町史執筆委員長吉田安弘氏が行われた。町長、教育長はじめ横山文哉ゆかりの人びとと町民百数十名が出席し盛会であったと伝えられている。またその翌年の平成元年三月には『有明町史 下巻』九四○頁が刊行され、大塩の乱に殉じた横山文哉が出生地・有明町の町史のトップにはじめて登場した。(未完)
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