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大塩の乱関係論文集目次


「横山文哉と島原・三之沢村」

その7

井形正寿

1995.10『大塩研究 第32号』より転載


◇禁転載◇

文哉ゆかりの子孫追跡

 私は以上述べてきたことから、横山文哉または、そのゆかりの者の子孫が島原藩の領内に、いまもいるものと確信するようになった。そこで、横山文哉の出生地は『大塩平八郎一件書留』で肥前国三沢村となっているので、現在地確認の作業にとりかかった。その結果、長崎県東高来郡有明町大三東であることがわかった。現地の電話帳を見ると大三東に十四軒の横山姓があったので、この十四軒と有明町教育委員会に昭和六十三年六月三十日付で照会状を出したころ、翌月の七月七日ごろに突然、有明町教育委員会(有明町史編集委員長)の吉田安弘氏から電話がはいった。その第一声は「まさに、青天の霹靂だ。大塩の乱に参加した横山文哉のことについては有明町の者はだれも知らなかった。調べてみたら確かに横山文哉の身よりの者がいる」との嬉しい知らせであった。それから、何度も手紙や電話のやりとりがあって、次のようなことがわかってきた。


−補註−
(12)前(3)の『大塩平八郎一件書留』二九六頁−二九七頁(横山文哉親族名前書)


有明町史に登場

 右のような現地の状況がわかるとともに、現地の熱気がひしひしと伝わってくる。その年(昭和六十三年)の八月二十日には町民センターにおいて横山文哉の追悼法要と記念講演会が開催された。講演は「儒学者川北温山にふれて」ウェスリンアン短大教授奥村孝亮氏。「横山文哉と大塩平八郎の乱」有明町史執筆委員長吉田安弘氏が行われた。町長、教育長はじめ横山文哉ゆかりの人びとと町民百数十名が出席し盛会であったと伝えられている。またその翌年の平成元年三月には『有明町史 下巻』九四○頁が刊行され、大塩の乱に殉じた横山文哉が出生地・有明町の町史のトップにはじめて登場した。(未完)


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