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大塩の乱関係論文集目次


「横山文哉と島原・三之沢村」

その6

井形正寿

1995.10『大塩研究 第32号』より転載


◇禁転載◇

島原藩の動揺と措置

 島原藩大坂蔵屋敷では、島原藩領内出身の横山文哉の存在をかなり知っていたのではなかろうか。さきに島原藩大坂蔵屋敷から江戸藩邸への手紙のなかにもあったように、「大塩平八郎面体は右文哉能以候由二而何も文哉ヲ平八郎と目を付候由之所、惣髪故而平八郎ハ無之由何レも相咄候旨相聞申候」とある。このことは大塩平八郎と横山文哉の人相がよく似ていたということだろう。髪形は平八郎が武士風のまげ姿に対し、文哉は医者風に髪全体をのばして、うしろで束ねる総髪であっても、顔は似ているのでよく間違えられたという話が伝わっていたということは、それほど蔵屋敷や市民の間では横山文哉の名前は知られていたということだろう。

 この手紙はさらに、続いて「若、残党て召捕し御吟味御座候時ハ御厄介筋も相成可申哉付、人高除之者取計候ヘハ申分有之間敷奉存候、早速其筋へ御沙汰可然取計有之候様、此度右文哉生死不相分候、此段申上度如此御座候。有之通り昨日之便嶋原へ申上候間、御承知迄申上奉候」と、江戸の島原藩屋敷に報告するとともに、島原藩の国許に送った手紙の写を附紙として同封している。その附紙には、「大塩平八郎方へ兼出人之者、悉く被召捕居由御座候。文哉義国許御尋御座候時者、疾人高除之者相答御厄介不相成候様、仕度事。世上殊之外、騒々敷由風説・虚実ハ不相分候得共、此度之道中杯ハ例ハ御手当も御座候、可然歟奉存候。姫路なとハ武器を相用、騒動之様子も相聞候。併、聢と仕候義ハ不相分候。御承知迄申上置候」と街道筋の厳戒と姫路藩などが武器を使用したことを伝えている。

 この手紙によって、島原藩の動揺と対策に腐心している有様が手に取るようにわかる。島原の乱後、譜代大名として特別の任務を帯び、島原を領知していた島原藩としては、領民のなかから、幕府に対する反逆者が出たことで、慌ただしい対応に追われている姿が目に浮かぶ。


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