『大塩研究 第39号』1998.2より転載
ここで明らかにして置きたいおことは、大塩平八郎は天保八年(一八三七)三月二七日靱油掛町、美吉屋五郎兵衛宅で養子格之助とともに自決しているが、その場所は現在の西区靱本町一丁目一八番二一号(石本ビル)同二二号(日紅商事)に該当する。ただし、不動産登記簿の土地地番では西区靱本町一丁目六一香地(石本秀治・地積一八八・八五平方メートル=五七・一三坪)同六二番(日紅簡事・地積一五六・五六平方メートル=四七・三六坪)になっている。今回「大塩平八郎終焉の地」として建碑された場所は明治五年までは信濃町といわれていた。この両方の場所は今日では靱本町一丁目一八番という同一の街区となっており、また両方の間隔は直線で四○メートル、左廻り迂回で九○メートルほどしか離れていない。
建碑の場所(天理教飾大分教会)と美吉屋五郎兵衛宅跡(石本ビル、日紅商事)とは裏側の背割水道(太閤下水道ともいわれる)で接している(図l参照)。背割水道は当初、開渠であったものを大阪市は明治二七年の下水道改良事業の際に、石蓋で暗渠化し、下水の溝床にコンクリートを打つなどの改良工事を行い、今も幅二メートルの市道下に下水が流れて供用されている。一言でいうなれば、今回、大塩終焉の地の碑が建った天理教教会裏側(北側)下水道を隔てたところが大塩終焉の地ということになる。
斎藤町(いまの西区江戸堀一丁目)の医師某が大塩の乱前後に書いたといわれる『浮世の有様』のなかで、美吉屋五郎兵衛宅を「靱油掛町土橋筋一筋西の辻西へ入る南側角より二件目」としている。また、幸田成友氏が明治四三年に出版した『大塩平八郎』のなかで「今の靱下通二丁目紀伊国橋を東に入った所の南側で東から二軒目」といっている。
『浮世の有様』のなかで、道順の目標とした土橋筋は江戸期から大正にかけて西の心斎橋筋といわれたところで、立売堀に架かる「立売橋」を土橋(または槌橋)といったので、この通り筋を世間は土橋筋といった。
医師某はこの繁華な南北の筋から美吉屋宅を示した。これに対し幸田成友氏は京町堀に架かる紀伊国橋(「紀国橋」キノクニバシともいう)から示されているが、結局、両者は同じ場所を指していることになる(「立売橋」「紀国橋」ともに図2参照)。立売堀、京町堀の堀川は昭和三○年から三一年にかけて埋め立てられたので、いまは橋もなくなった。
例えば、明治五年に信濃町は靱南通一、二丁目及ぴ靱下通一丁目に分かれ、瀬戸物町は靱下通一丁目、靱中通一丁目などに分かれた。また、昭和三六年には靱油掛町、新靱町、新天満町を加えた広い区域が靱本町一、二丁目になった。本稿の目的は靱油掛町の確認が目的であるので、概略にとどめた。
ただ、この付近一帯は今次の大戦で戦災地となった。戦後の昭和二一年直ちに、戦災復興の土地区画整理事業が大阪市によって計画され「江戸堀工区」の名称で昭和二六年仮換地指定、同三六年三月三一日に本換地決定がなされた。この「江戸堀工区」は八○%が戦災地となり、靱地区では一○○%といってもよいほど壊滅的な戦災を愛けた。戦後の一時期、焼跡で畑づくりが行われ、北半部は靱飛行場として進駐軍に接収されていた。昭和二七年に返還された飛行場跡地は靱公園となった。
本来、土地区画整理事業の原則は整理前後の土地が照応するような工法(現地換地ともいう)で行わなければならないのだが、「江戸堀工区」ではこの照応原則がくずれて、現地から離れた同一工区内の他の場所へ換地指定するという、いわゆる〃飛換地〃が多かったようだ。このことについては最近大阪市建設局から刊行された『甦えるわが街』のなかでもふれている。(注1)
従前の土地所有者と換地後の土地所有者との間には何等の脈絡がないのに、施行者の換地作業上の都合で飛換地指定されたり、本人の願い出による換地変更によってか、その理由はわからないが、美吉屋五郎兵衛宅の跡地である靱本町一丁目一八番二一号・二二号の土地に、換地後の所有者が他の土地から飛換地されていたことが今回の調査で判明した。(注2)
また、この反対に土地区画整理施行前の美吉屋五郎兵衛宅跡の従前の所有者も、同一工区内の他の土地三カ所に分かれて飛換地している。(注3)
*2 大阪法務局西出張所備付の現行不動産登記簿及び閉鎖登記簿などを調査した結果、次のような飛換地がわかった。しかしなぜ飛換地になったかの実態はわからない。
(1)石本ビル(靱本町一丁目一八−二一・石本秀治)の土地は、靱本町一丁目九 −二三、大阪布帛会館付近から飛換地した。従前地、靱上通二丁目五○番地 一○三、四九坪に対し換地は五七、一三坪となっている。 (2)日紅商事(靱本町一丁目一八−二二・丸紅)の土地は、靱本町一丁目一五− 一七、靱ハイッ付近から飛換地した。従前地、靱中通二丁目四番地七二、六 五坪に対し換地は四七、三六坪となっている。*3 前項*2と同様、法務局備付の簿冊及ぴ土地台帳、旧公図(図4参照)昭和五九年調製の現行公図などを調査した結果、従前の美吉屋跡地を所有していた者も他の土地三カ所に換地され、飛換地となっていることがわかった。
(1)靱下通二丁目二五番地、所有者関西シルバー編機株式会社、一○・七五坪は 他の上地四四、四六坪と合せた五五、二一坪に対し、換地は靱一丁目一三二 番地(靱本町一丁目九−二○うつぼビル付近)二九、八一坪となっている。 (2)靱下通二丁目二五番地の一、所有者大阪土地開発株式会社、八四・三六坪は 他の土地一七二・七九坪と合せた二五七・一五坪に対し、換地は靱一丁目六 四番地(靱本町一丁目六−二一なにわ銀行付近)一六五・五八坪となってい る。 (3)靱下通二丁目二五番地の二、所有者伴良一・五、二五坪に対し、靱本町一 丁目七番地に三・○九坪として換地された。その後、理由はわからないが、 他の土地と合筆などの結果、現在は靱本町一丁目一五−二○、大洋ビル付近 の三五・○八坪となっている。
旧公図(図4)では「靱下通2丁目廿五番地百坪三合六勺」となっており、また、明治四四年刊行『大阪地籍地図』(注5)の地図の地積も一○○坪三六であり、同地図の土地台帳の部(土地所有者名簿)にも「靱下通二丁目二五番地一○○坪三六今津亦兵衛」となっているから、さきの『土地台帳』と合致する。ただ、今津亦兵衛・伏見善七からさらに江戸期にさかのぼれないものかと靱油掛町の水帳の存在などを調査したが、大学や府・市の図書館にも収蔵されていないので、この面からの追跡ができなかったことは残念である。
*5 「大阪地籍地図』明治四四年、吉江集画堂発行。「地籍地図・市街及接続郡部」「土地台帳の部」からなっている。精度がたいへん高いので土地区面整理にも基本地図として使われた。
その時、区役所三階の和室の部屋に、区史に関係ある書籍っ文献が所蔵されているから、自由に閲覧して下さいと案内された。早連、目ぼしいものを手当り次第捜したが、美吉屋五郎兵衛宅跡地の確たる資料は見つからなかった。
幸田成友氏が明治四三年に出版した『大塩平八郎』のなかで、さきにも書いたとおり、大塩終焉の地を特定して明らかにざれているのだから、西区や地元では天下周知のことだろうと考えていたのだが、これは目算はずれだった。
大正時代に出版された井上正雄氏の『大阪府全志』にも「旧油掛町は大塩平八郎の潜伏せし所なり」と簡単に書かれており、大阪市教育部編纂の『大正大阪風土記』にも「油掛町(今の靱下通二丁目)美濃屋(ママ)五郎兵衛方へ身を隠した」としているだけで詳しい場所を特定していない。
大塩終焉の地について知らない方ばかりではなく、先刻ご存じの方もいられた。元靱連合会会長の澤崎三平氏は行政相談員などの公職にも就かれた方で、太閤下水のこともよく知っていられた。日紅商事ビル東隣りの能勢ビルのオーナー能勢敏子さん、能勢ビルの向かい側の青野ユカ子さん、このお二人は大塩ファンともいうべき存在の方々であることを記して置こう。
最後に、この大塩終焉の地の調査にあたっては、地元、近隣のみなさん、関係官庁の担当者の諸氏に大変なご協力を戴いた。心から厚くお礼を申上げたい。
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