Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.7.11
2001.6.12修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎終焉の地について」

井形 正寿

『大塩研究 第39号』1998.2より転載


◇禁転載◇

(一)

 一九九七年九月二七日大阪市西区靱本町一丁目一八番一二号天理教飾大分教会正面入口西側、本町通り国道一七二号線沿いに「大塩平八郎終焉の地」追悼碑が、大塩の乱一六○年記念行事の一環として建立された。この碑の建立に至る経緯については、別稿の『建碑運動の経過報告』に譲る。

 ここで明らかにして置きたいおことは、大塩平八郎は天保八年(一八三七)三月二七日靱油掛町、美吉屋五郎兵衛宅で養子格之助とともに自決しているが、その場所は現在の西区靱本町一丁目一八番二一号(石本ビル)同二二号(日紅商事)に該当する。ただし、不動産登記簿の土地地番では西区靱本町一丁目六一香地(石本秀治・地積一八八・八五平方メートル=五七・一三坪)同六二番(日紅簡事・地積一五六・五六平方メートル=四七・三六坪)になっている。今回「大塩平八郎終焉の地」として建碑された場所は明治五年までは信濃町といわれていた。この両方の場所は今日では靱本町一丁目一八番という同一の街区となっており、また両方の間隔は直線で四○メートル、左廻り迂回で九○メートルほどしか離れていない。

 建碑の場所(天理教飾大分教会)と美吉屋五郎兵衛宅跡(石本ビル、日紅商事)とは裏側の背割水道(太閤下水道ともいわれる)で接している(図l参照)。背割水道は当初、開渠であったものを大阪市は明治二七年の下水道改良事業の際に、石蓋で暗渠化し、下水の溝床にコンクリートを打つなどの改良工事を行い、今も幅二メートルの市道下に下水が流れて供用されている。一言でいうなれば、今回、大塩終焉の地の碑が建った天理教教会裏側(北側)下水道を隔てたところが大塩終焉の地ということになる。

図1 現在の地図に美吉屋五郎兵衛宅を落としたもの(省略)


(二)

 大塩終焉の地の研究については、一九七八年に米谷修氏が『大塩研究』五号・六号「美吉屋五郎兵衛宅の復元と大塩平八郎父子最後」のなかで美吉屋五郎兵衛宅の場所を明らかにせられている。また、自井孝昌氏にもこれよりさきの七五年に『大阪春秋』八号「美吉屋五郎兵衛邸跡地の研究」で古地図と公図から終焉の地を押えられた。両氏とも大塩終焉の地を靱本町二丁目六一番地・六二番地(石本ビル・日紅商事)とせられていたが、その後、住居表示の実施(昭和五二年二月)から靱本町一丁目一八番二一号・二二号となった。

 斎藤町(いまの西区江戸堀一丁目)の医師某が大塩の乱前後に書いたといわれる『浮世の有様』のなかで、美吉屋五郎兵衛宅を「靱油掛町土橋筋一筋西の辻西へ入る南側角より二件目」としている。また、幸田成友氏が明治四三年に出版した『大塩平八郎』のなかで「今の靱下通二丁目紀伊国橋を東に入った所の南側で東から二軒目」といっている。

 『浮世の有様』のなかで、道順の目標とした土橋筋は江戸期から大正にかけて西の心斎橋筋といわれたところで、立売堀に架かる「立売橋」を土橋(または槌橋)といったので、この通り筋を世間は土橋筋といった。

 医師某はこの繁華な南北の筋から美吉屋宅を示した。これに対し幸田成友氏は京町堀に架かる紀伊国橋(「紀国橋」キノクニバシともいう)から示されているが、結局、両者は同じ場所を指していることになる(「立売橋」「紀国橋」ともに図2参照)。立売堀、京町堀の堀川は昭和三○年から三一年にかけて埋め立てられたので、いまは橋もなくなった。

図2 美吉屋五郎兵衛宅を文化3年の『増修改正大坂地図』に落としたもの (省略)


(三)

 ここで靱油掛町の町名変更などを掲げて置こう。なお、括弧書は美吉屋五郎兵衛宅跡地の町名地番の変遷を示している。
 右は江戸期の靱油掛町から現代に至る変遷であるが、その過程のなかで、町界区域の離合集散によって複雑な沿革をたどっている。

 例えば、明治五年に信濃町は靱南通一、二丁目及ぴ靱下通一丁目に分かれ、瀬戸物町は靱下通一丁目、靱中通一丁目などに分かれた。また、昭和三六年には靱油掛町、新靱町、新天満町を加えた広い区域が靱本町一、二丁目になった。本稿の目的は靱油掛町の確認が目的であるので、概略にとどめた。


(四)

 大塩終焉の地を、法務局備付の公図と不動産登記簿などによって従来の土地所有者を過去に潮って確認する必要があるのではないかと考え、大阪法務局西出張所へ何回も訪れた。美吉屋五郎兵衛宅は現在の不動産登記簿ではさきに書いたとおり、西区靱本町一丁目六一番地・六二番地にほぼ該当する。

 ただ、この付近一帯は今次の大戦で戦災地となった。戦後の昭和二一年直ちに、戦災復興の土地区画整理事業が大阪市によって計画され「江戸堀工区」の名称で昭和二六年仮換地指定、同三六年三月三一日に本換地決定がなされた。この「江戸堀工区」は八○%が戦災地となり、靱地区では一○○%といってもよいほど壊滅的な戦災を愛けた。戦後の一時期、焼跡で畑づくりが行われ、北半部は靱飛行場として進駐軍に接収されていた。昭和二七年に返還された飛行場跡地は靱公園となった。

 本来、土地区画整理事業の原則は整理前後の土地が照応するような工法(現地換地ともいう)で行わなければならないのだが、「江戸堀工区」ではこの照応原則がくずれて、現地から離れた同一工区内の他の場所へ換地指定するという、いわゆる〃飛換地〃が多かったようだ。このことについては最近大阪市建設局から刊行された『甦えるわが街』のなかでもふれている。(注1)

 従前の土地所有者と換地後の土地所有者との間には何等の脈絡がないのに、施行者の換地作業上の都合で飛換地指定されたり、本人の願い出による換地変更によってか、その理由はわからないが、美吉屋五郎兵衛宅の跡地である靱本町一丁目一八番二一号・二二号の土地に、換地後の所有者が他の土地から飛換地されていたことが今回の調査で判明した。(注2)

 また、この反対に土地区画整理施行前の美吉屋五郎兵衛宅跡の従前の所有者も、同一工区内の他の土地三カ所に分かれて飛換地している。(注3)


  −注−


(五)

 以上の調査のため何回も大阪法務局西出張所と土地区画整理事業継承部門である大阪市建設局区画整理部などへ足を運んだ。この結果、ようやくにして法務局の『土地台帳』によって明治期まで遡ることができた。それには「西区靱下通二丁目弐五番地、市街宅地一○○坪三六明治四○年一月一一日、前所有者伏見善七(住所東区上本町八丁目二○四番地)から今津亦兵衛(住所西区靱北通四丁目四三香地)に所有権移転」となっていることまで突きとめることができた。市の区画整理部では、古い資料を既に整理しているため、飛換地の経過すらわからなかった。しかし、土地区画整理事業を策定した昭和二二年当時の区画整理部所蔵の『現形並に予定図』(従前図ともいう・図3参照)法務局備付の旧公図(注4・図4参照)の閲覧を特に許可していただいたことから、大塩終焉の地が明治期まで確認できたことは幸いであった。

 旧公図(図4)では「靱下通2丁目廿五番地百坪三合六勺」となっており、また、明治四四年刊行『大阪地籍地図』(注5)の地図の地積も一○○坪三六であり、同地図の土地台帳の部(土地所有者名簿)にも「靱下通二丁目二五番地一○○坪三六今津亦兵衛」となっているから、さきの『土地台帳』と合致する。ただ、今津亦兵衛・伏見善七からさらに江戸期にさかのぼれないものかと靱油掛町の水帳の存在などを調査したが、大学や府・市の図書館にも収蔵されていないので、この面からの追跡ができなかったことは残念である。


  −注−


(六)

 かつて、白井孝昌氏が『大阪春秋』八号の「美吉屋五郎兵衛邸跡地の研究」のなかで、大塩終焉の地のこのあたりは、大塩の乱当時と比べて街区の大きな変化はなかったと見てよいのではなかろうかと述べていられるが、私も同意見である。大きな変化といえば、戦災による土地区画整理によって、美吉屋宅の道路が三間三分(六メートル)から八メートルに拡張されたこと位である。これをさきの「現形並に予定図」(図3参照)と土地区画整理完了時の換地地籍図(注6・図5参照)を見れば了解されることと思う。もう一つの変化といえば、これらの図をさらに比較していただければ境界線のズレに気付かれるはずだ。従前の境界線が直線の一筆地(靱下通二丁目二五番地)であったものが、換地によって二筆地(靱本町二丁目六一番地・六二番地=現在は靱本町一丁目、住居表示は同町一八番二一号・二二号)となり、これに伴って東面の境界線が傾斜したものになっている。その結果、六二番地の土地は南側(背割下水)で一、六八間(約三・○五メートル)東隣の土地に入組み、六一番地の土地は北側(市道)で一、六五間(約三メートル)西隣の土地に入組み境界線が変った。この計算は旧公図(図4)と換地地籍図(図5)に示された数字から数値を算出した。

図5 『換地地籍図』、矢印が美吉屋五郎兵衛宅


  −注−


(七)

 もう一○年も前のことになるが、大塩終焉の地を西区役所サイドで、どのように把握されているのだろうかと考え、区役所を訪ねたことがあった。その時頂いたガイドマッブ『西区の史跡』は、いまも私の手許に残っている。それには大塩終焉の地についてはなにも書かれていなかった。僅かに『西区史』三巻(昭和一八年出版)で、靱下通二丁目の項に「此の地奈良屋橋筋の辻西南角二軒目の奥は……大塩平八郎・同格之助父子が隠れて居た美吉屋五郎兵衛址である……」という数行の記述があることを紹介されたことを覚えている。

 その時、区役所三階の和室の部屋に、区史に関係ある書籍っ文献が所蔵されているから、自由に閲覧して下さいと案内された。早連、目ぼしいものを手当り次第捜したが、美吉屋五郎兵衛宅跡地の確たる資料は見つからなかった。

 幸田成友氏が明治四三年に出版した『大塩平八郎』のなかで、さきにも書いたとおり、大塩終焉の地を特定して明らかにざれているのだから、西区や地元では天下周知のことだろうと考えていたのだが、これは目算はずれだった。

 大正時代に出版された井上正雄氏の『大阪府全志』にも「旧油掛町は大塩平八郎の潜伏せし所なり」と簡単に書かれており、大阪市教育部編纂の『大正大阪風土記』にも「油掛町(今の靱下通二丁目)美濃屋(ママ)五郎兵衛方へ身を隠した」としているだけで詳しい場所を特定していない。


(八)

 しかし明治期の幸田成友氏の『大塩平八郎』や『西区史』で大塩終焉の地が特定されていながら、ご近所の方でも、知らない方が多い。石本ビルの石本秀治氏も全くご存じではなかった。だが、石本氏との会話のなかで次のようなことがわかった。石本氏がこの土地を昭和三二年に買って引越して来られた時、敷地のなかに背割下水とつながっている池のような跡があって、これを埋めるのに大変手問取ったという話をせられた。これは、美吉屋がさらさ染屋として染物の洗い場として便っていた跡ではなかろうか。印象にのこる興味ある話しだった。

 大塩終焉の地について知らない方ばかりではなく、先刻ご存じの方もいられた。元靱連合会会長の澤崎三平氏は行政相談員などの公職にも就かれた方で、太閤下水のこともよく知っていられた。日紅商事ビル東隣りの能勢ビルのオーナー能勢敏子さん、能勢ビルの向かい側の青野ユカ子さん、このお二人は大塩ファンともいうべき存在の方々であることを記して置こう。

 最後に、この大塩終焉の地の調査にあたっては、地元、近隣のみなさん、関係官庁の担当者の諸氏に大変なご協力を戴いた。心から厚くお礼を申上げたい。


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