Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.7.21
2001.6.12修正

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大塩の乱関係論文集目次


「美吉屋五郎兵衛の家業についての考察」

井形 正寿

『大塩研究 第22号』1987.5より転載


◇禁転載◇

(一)

 美吉屋五郎兵衛の家業を幸田成友は名著『大塩平八郎』のなかで「手拭地の仕入職」と断定せられている。森鴎外も幸田の著書を「一番多くの史料を使って、一番精しく書いてある」と称賛しているだけに鴎外の『大塩平八郎』も美吉屋五郎兵衛の家業を「手拭地の為入(しいれ)屋」として書いている。

 幸田の『大塩平八郎』初版本(明治四十三年一月東亜堂書房発行)緒論のなかで「騷乱に関する沙汰書・触書・届書・吟味書乃至裁許状等公文書に属する史料は言ふに及ばず在大阪公私の人々より私信として夫々ヘ発送したる見聞書、風説書の類は頗る多く伝っている。塩逆述十二巻附録二巻は公私の文書を収集大成したもので、塩賊騒乱記五冊これに次ぎ、其他何といい、角といい、書名は種々あるが、子細に本文を点検すると、彼此同一の史料を多く載せている。又編纂ものには浪花筆記一名天満水滸伝十二巻伝写弘布すれども、単に騒乱そのものを記すに過ぎない。評定所一座の大坂市中放火乱妨に及び候一件吟味伺書・異変の砌玉造組与力同心働前御吟味に付明細書取・又坂本鉉之助の咬菜秘記等有力なる史料が、従来の大塩平八郎伝に引用されておらぬは遺憾至極である。否寧ろ不思議千萬と言はねばならぬ」という論旨からすれば、江戸評定所に於ける美吉屋五郎兵衛同つね申口に「手拭地仕入職渡世いたし」との供述があるので、この申口によって「手拭地の仕入職」と断定せられたのはなかろうか。その『大塩平八郎』の初版本には両名の申口が附録として収録せられている。


(二)

 前述の『塩逆述』及び『塩賊騒乱記』は大阪市史編纂所に写本が架蔵されており、このなかには多くの聞書、史料が収録されている。

 これらの聞書では、美吉屋五郎兵衛の家業を『塩逆述』の七巻では「木綿形置染物等商」八巻では「和更紗商売仕候者」「商売、更沙形置」十一巻では単に「紺屋」として出てくる。『塩賊騒乱記』では「太物商」としている。

 斎藤町の医師某が書いたとされている『浮世の有様』のなかの聞書では「皿砂染を家業とする者」*1 とあり、続いて同書に西町奉行堀伊賀守家来、卯兵というものの筆記の見聞でも「更紗染屋」*2 としている。また、美吉屋五郎兵衛宅で大塩父子の遺体検分に立会った天満組惣年寄今井官之動(今井克復)の談話では「更紗の形置職」*3 だったと語っている。

 このほか『大塩乱妨記』では「更沙商売」*4 明治十五年発行の『大塩平八郎伝記』明治二十一年発行の河村与一郎著『警世矯俗、大塩平八郎伝』でも「更紗染の渡世」*5「更沙染の業戸 *6」、となっている。  大阪府立図書館所蔵の『浪華異聞』のなかで幕府評定所の吟味伺書に家業は「手拭仕入方渡世」となっており、前にも述べたとおり美吉屋五郎兵衛同つねの申口は「手拭地仕入職渡世」と述べていることからすれぱ、家業としてはこれが有力なキメ手ということになる。当時の『商人買物独案内』の染物屋に諸国仕入所、仕入紋糊置染屋、模様物仕入所、仕入形付紺屋、染地手拭仕入所等と仕入という言葉が散見する。

 江戸時代の人阪には、染物屋という総称のもとに「藍無地染屋」「著用七組形付紺屋」(天満組、江戸堀組、堀江組、船場組、上町組、島の内組、南瓦屋町組の七組)「仕入形付紺屋」(長染屋、手拭染屋を含む)「絞染屋」「茜染屋」「更沙屋」「紅粉染屋」「茶染屋」等が大坂三郷及び隣接町村に千軒に及ぶ染物屋があったと 『大阪市史』 *7 にある。

 これらの千軒の染物屋は町の各所に散在していたが、これらの染物屋はある程度同業者が集まっていたようである。『難波丸綱目』からひろってみると、次のようになる。

 このように染物屋のある町を「商人買物独案内」等で調べてゆくと大阪の町並や染屋の情景が目に浮んでくる。近松門左衛門は『心中重井筒』のなかで、紺屋のあわただしい情景と大阪の町々のことを興味深くえがいている。



(三)

 大阪市史にある「仕入形付紺屋」とは紙を何枚も重ねて渋張りをして乾燥させたのち、これに模様を彫った紙型を布帛の上にのせて捺染する染屋をいい、多量の委託加工を受注することところを「仕入紺屋」といった。これに対し、町の商人からふとん地一枚、のれん一枚を持ち込まれたり、近在の農家からかせ糸や織った反物を持ち込んで「この見本のとおり染めてや」と注文を受ける染屋を「寄綛紺屋」といった。手拭染屋は普通幅八寸、長さ五尺位の入浴用を主とし、鉢巻、頬かぶり等に使用するものを染めた。

 江馬務の『手拭の歴史』*8によると、手拭の染方について「昔は全く型紙を作って摺込む方法であったが、文化、文政の頃から板に張り付けこれに糊を置いて乾かし、又裏にも同様の処置をして、刷毛を以て細く染めてゆく。又時として染料の壺の中へ浸染することもある。」と書かれている。

 江戸末期に出された喜多川守貞の『守貞漫稿』には当時の手拭を次のように挙げている。

 更沙染屋の更沙は佐良佐、皿紗、紗羅紗、暹羅、華布などと書かれていた。『守貞漫稿』には「異国より渡るものを模して、日本にて染るものを和サラサという。舶来の華布、天保の頃多く渡りて流行し、三都で男女の下着、襦袢などに使用せられ、また風呂敷にも用いられた」*9 とある。当時の更沙染屋は四角い行燈のようなものに更沙布を張りその下に唐紙を張って看板としたと『守貞漫稿』にあるところから、町でもかなり目立つ商売であったようである。

 以上のような史料から考えられることは、美吉屋五郎兵衛は手拭地の仕入職を本職とし、更紗染を兼業としていた染物屋であったと考えられる。

 美吉屋五郎兵衛の暮し向きについては、幸田成友は『大塩平八郎』のなかで「五郎兵衛の家族は女房つね、娘かつ、孫かく、下男五人、下女一人の都合十人暮し」となっている。『浮世の有様』では「八年巳前当時の家を買い求めて引移しと云。家内二十人斗の暮しにて、商売も大いに繁昌して有福のくらしなりと云。』とある。『塩逆述』七巻(中)に収録されている羽間五郎兵衛(確斎)が佐藤捨蔵(一斎)に出した書翰のなかで「靱町(油掛町)と申は私(羽間五郎兵衛)宅近辺より拾四、五丁も北にて御座候、木綿形置染物商いし、相応の町人に御座候由」*10とあるから、有福の染物屋であったことは間違いないだろう。



(四)

 江戸時代の染物屋は、木綿太物問屋の下職として、染色に従事していたようである。木綿は毛綿とも書き、絹織の呉服物に対し、綿織、麻織物を太物といった。

 大阪商工会議所に架蔵するものを編集発行した『大阪商業史資料』第三十一巻所収の「大阪綿商の由来」「綿商旧記」によると大阪の綿商仲間は万治年間以来の由緒があり、毛綿問屋は江戸組と諸国組六組(油町組、堺筋組、東堀組、北組、上町組、天満組)と自毛綿組の計八組の株仲間があり、江戸組は、大阪に集荷する木綿を晒したり、染めたりの加工をして、江戸表へ積出していた。諸国組は西国筋、四国、中国、山陰道筋その他から大阪へ集荷された白毛綿を取扱い、染色を必要とする木綿はこれらの仲間から染屋または絞り屋にまわされた。しかし請負ったものが一手に捌ききれない時は、さらに下職人にまわされた。ところが下職人が請負った反物を生活に困り、質屋に入れるということが多発した。下請に出した毛綿問屋が止む得ず流質期限に質受けに行くというような事態が起ったので、これを防止するため、生地に目印判を捺印して入質させない方法を寛政八年、町奉行所に願出て許可されている。*11

 また、文化十三年五月には、さきの目印判捺印の実施碓認と、生地の直仕入禁止などを毛綿商六組の仲間で「為取替式目之事」*12 をもって次のように申合、約定している。

 これらの条項からしても染屋が木綿間屋に従属していたことがよく理解出来る。なお、江戸組でも同年同月同じように仲間の申合、約定 *13 を取かわしているので七組申合となる。



(五)

 美吉屋五郎兵衛が多年、大塩邸に出入し、勝手向の世話をしていた関係から一味加担の嫌疑と、大塩の乱に使用された旗、幟を調製したことで乱後、町奉行所で取調べを受けて町預りになった時の状況を『浪華異聞』の吟味書では次のように記述している。

 「平八郎ハ平常懇意之趣ニ付乱妨およぴ候砌、相用候旗四半等此もの世話いたし仕立遣候儀ニ可有之旨糺受候得共、右様之覚無之尤其以前、手拭地拾反、風呂敷八代金請取、売渡候儀有之候間、其段申立候処、申口紛敷由を以町預ニ相成候」*14 とあって、手拭地と風呂敷を調達したことだけを自白しているようだ。

 風呂敷は『守貞漫稿』の更沙染の項に「今では風呂敷に用いられ、赤茶藍などの一色ものが多い」として風呂敷を更沙染のなかにいれている。

 この『浪華異聞』から見ても、美吉屋五郎兵衛の家業は手拭染と更沙染を兼業していたことになる。今までにあげてきた資料からしても矢張り兼業染屋と見るのが至当ではなかろうか。

 染屋の典形的な店構というものは、たいてい大通に面して店に土間をつくり、片側に埋めこみの藍がめを据えて染の作業をする。藍がめは四つ一組でサイコロの目形に置かれ、その中央に加温用の火壷(夏は使用しない)の穴がある。

 染屋にはこのほか浜(ハマ)と称する水洗作業のため大量の水を使用する場所と、水洗いのあと乾燥させるタテと称する物干場がないと出来ない仕事である。

 以上のように染屋の店構、作業などを見てくると、藍がめなどの配置していた作業場、水洗場、物干場などは美吉屋五郎兵衛屋敷のどこで行っていたのであろうか。今まで公表せられている資料では判然としない。物干場については『塩逆述』八巻に名古屋藩大坂蔵屋敷詰家臣の見聞として「みよしや五郎兵衛………住居も広く、裏に物干場有之」*15、と僅かに見えるだけである。幸田成友の『大塩平八郎』のなかの「大塩平八郎父子油掛町美吉屋五郎兵衛宅之図」でもそれらを見出すことができない。強いて考えれば「見世」「土間」というところで、これらの仕事を行っていたということになるのだろうか。しかし、染屋の重要な工程である、浜(ハマ)或は水元(ミズモト)といわれる水洗作業は、普通は川などで水を充分使って、生地に付着している糊などの不純物を洗落す作業をしなければならないのだが、美吉屋五郎兵衛はこの水洗作業をどのようにしていたのかの疑問が残る。



(六)

 美吉屋五郎兵衛の屋敷については米谷修氏の『大塩研究』第五、六号「美吉屋五郎兵衛宅の復元と大塩平八郎の最後」そして白井孝昌氏の『河内文化』第二十二号(大塩研究号)「美吉屋五郎兵衛邸の復元」などで研究発表されているとおり、現在の住居表示で大阪市西区靱本町一丁目十八番二十一号石本ビル。同町同番二十二号日紅商事株式会社の所在するところが美吉屋五郎兵衛の屋敷跡であることは間違がない。この裏側(南側)に幅二メートルの路地(市有地)に背割下水といわれる水道(暗渠)が今も流れている。この下水道が五郎兵衛家業の染屋の水洗作業と何等かの係り合いがあったとしか考えられない。

 この水道については『浮世の有様』に五郎兵衛屋敷の「其南は信濃町にして、境めの大水道有て」とあり、また『塩逆述』八巻のなかで五郎兵衛屋敷見取図の屋敷の南側に「溝」と記載されているのが背割下水である。背割下水は一名太閣水道といい、江戸時代の土地台帖ともいうべき大坂三郷の水帳では”町境除地水道”と書かれている。

 背割下水すなわち、今日の下水道を江戸時代の大阪では通常”永道”といい、この水道は普通幅一尺−四尺(三○・三センチ−一・二メートル)時には二間(三・六メートル)に及ぶものもあった。高さもそれに比例した溝で、工法は素堀りしたあと、間知石または栗石で護岸工事をし、漆喰をほどこした開渠の下水道で屋敷と屋敷の背中に当る裏側にあったので、背割下水という。明治二十七年から初まった下水道改良事業により、溝の内部はコンクリートをもって不浸透性の暗渠構造に改造せられ、その多くが今も使用せられている。

 手拭染の水洗作業のことで『大阪春秋』二十号(昭和五十四年五月号)の「西区を語る」という座談会記事のなかで宮本又次氏(大阪大学名誉教授)吉田三七雄氏(ホテルプラザ副社長)掘内宏昭氏(大阪春秋社代表)等が次のような興味ある話をしている。

 
 この状況は明治から昭和初めにかけての話のようだが、染手拭が風になぴく特異の風景が堀江川、西横堀川、阿波堀川その他で見受けられたようである。

 美吉屋五郎兵衛屋敷のあった油掛町と目の鼻のさきともいうべき靱下通二丁目五一番地に明治十七年二月「手拭絞り染組合」*16 が組合負四十五名で創立されていることからしても、この辺に手拭屋が多かったことを示している。

 五郎兵衛は屋敷の井戸から扱みあげた水で生地を仮洗いのあと、すすぎ水は背割水下に流し、仮洗いの染手拭などは西構堀川か阿波堀川の浜地まで、いづれも三○○メートルばかりだから、ここまで運んで本格的な水洗をしていたのではなかろうか。

 なお、『大阪春秋』の編集同人であり、手拭関係の多くの著書を出されている近江晴子女史に、いろいろご教示を賜わりましたことを、紙面をかりて厚くお礼申上げる。 (本会副会長)



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