井形 正寿 『大塩研究 第27号』1989.11より転載
洋の東西を問わず、英雄には必ずといってよいほど不死伝説がつきまとう。英雄を死なせたくないという民衆の願望が、英雄待望伝説となって、遠くは義経がシベリヤを渡ってジンギス汗となり、近くは西郷隆盛が城山から脱出してロシアに渡り、十四年後の明治二十四年、日本を訪問するロシア皇太子ニコライと一緒にロシア軍艦で帰朝するというまことしやかな噂が当時の世間を賑わしたことなどを考える時、天保八年(一八三七年)に大坂・天満で大塩の乱を起して、時の幕府の心胆を寒からしめた張本人大塩平八郎にも不死伝説が多々ある。
その伝説の最たるものは、大塩平八郎の天草―長崎―清国福建省―欧洲への逃避説である。この伝説の発端は大阪市天王寺区城南寺町六の龍渕寺境内にある秋篠昭足というものの無縁墓に刻まれた碑文に起因する。
秋篠の墓は正面に「秋篠昭足之墓」とあり、その側面と背面に次のような文言が刻まれている。少し読みづらいが原文の儘記することとする。(句点は筆者)
丈人諱昭足。東坊城左典厩諱神足之庶出。出冐秋篠氏。天保丁酉春。大塩平八郎作乱于大坂。丈人素与大塩為
戚属。是以夙与其謀。及敗与大塩及其徒十二人遁河内。竄土窟中。初丈人与肥後天草僧善。僧因勧娶于其郷五稜長岡氏。丈人及与大塩父子及其他五人泛海遁于天草。余皆自尽。居歳余。更航入清国。久之大塩父子避跡欧羅巴。丈人与其徒三人還于長崎。以医為業。往来於天草嶋厚間。長岡氏生二女。長女巳出嫁。丈人独与季女居。明治壬申。余熊本鎮台。納季女生一男。居数歳。丈人携女及孫還大坂。改姓名曰伊藤吉平。十年丁丑十一月十五日。病歿。享年八十四。葬于城東龍淵寺塋域。
廿三年十月。前四等編修官正七位奥 並継撰并書。
孝女伊藤美喜立。
碑文の意味は、妻の父(丈人)の名を昭足といった。先祖は、東坊城神足であって、秋篠氏と名乗り、大塩の親戚であったから大塩の乱の謀議に参加した。敗れるに及んで大塩父子とその徒十二名は共に河内に逃れて土中に隠れていた。是れより以前に秋篠は肥後天草の僧と仲良くなり、その僧の媒酌によって天草五稜村長岡氏の娘を娶っていた。大塩父子と秋篠等五人はこの長岡氏を頼って海伝いに逃れて来たが、他の者は死んだ。この地に居ること一年余にして、更に清国に渡り、大塩父子は久しくして、更に欧洲へ避跡した。秋篠は三人の同志と共に長崎に帰国し、その後は医者として天草、島原にいた。秋篠の妻(長岡氏の娘)は二女を生み、その長女は他家に嫁し、秋篠は次女と同居の生活をしていた。明治五年奥 並継(余=碑文の撰者)は熊本鎮台にいた時、秋篠の次女を嫁にし、男一人が生まれた。居ること数年、秋篠は次女とその孫をともなって大阪に帰り、名を伊藤吉平と改名した。明治十年十一月十五日享年八十四歳で病歿した―ということのようだ。
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