井形 正寿 『大塩研究 第27号』1989.11より転載
この碑文だけではわからない点が多々ある。しかし、この碑文を書いた秋篠の娘婿奥並継が明治二十六年に『史論』第二号で「大塩平八郎欧洲に失踪す」(1)と題して疑問に答へる形で書いている。重要な箇所でもあるので、その前半の一部を原文の儘再録する。
○大塩平八郎欧洲に失踪す 奥 並継
大塩平八郎父子の海外に遁れしことは、秋篠昭足翁の二女伊藤みき其父より寐物語りに聞たるを、翁歿後、己れ其墓誌を撰ばんとするに際し、其梗概を始て物語けるゆヘ、翁の遺書等残りなく捜索すれども、其家系の東坊城家の出たると、清国にて医を学び帰朝の後、闌人実は独乙人シーボルトに就て、其術を伝たりしことなどは、其随筆の中にも彼是と散見すれども、荀も天保丁酉の事はすこしも書れたるものなし、然しながら初め翁の京師にありし時、北野辺に住しに、肥後国天草国昌寺の主僧某と親しかりしに、一年、天草五陵村々正長岡氏の二女上京したるを見初めしに、僧某の勧により遂に長岡氏を娶りけるが、即ち伊藤みきの実母にて、翁の大塩と謀を通じ、事を与んとする期に先んじて、一味中大塩と同じ与力にて吉見新左衛門と云ふ者の反問ありたれば、巳むを得ず暴発して敗を取り、予て用意志たりける大塩乳母の里、河内国更砂形屋五郎左衛門の家に退き、一時土窖中に潜伏し、大塩父子及び翁は其他四人と海に航して、肥後国天草五陵村長岡氏に投ぜり、跡に残りたる十余人は該窖中に潜匿して世の動静を窺しに、彼の新左衛門、五郎左衛門の大塩家に由緒あるを知るをなれば、余程注意して探討せしと見え、人をして更砂形屋に雇はれたる女に、日々炊飯の米数を問ひけるに、其女何心なく実を以て答へければ、更砂形屋の家の人数に対しては、過当の炊飯なりしより、益、疑惑を起し、新左衛門外同心等を卒て更砂形屋へ寄来り、家中隈なく捜索すれども更に他の人影だに見えず、仍て同家を取毀にかゝりたる時、潜伏の者共最早是迄なりとて、窖中に備へありたる大砲七門にて捕手の者に向ひ、今日寄来るは吉見新左衛門なるべし、汝ぢ反問の大罪思ひ志れと口々に罵り、七門の大砲を一時発射せしゆヘ、即ち右吉見新左衛門外七人討死せり、又た窖中の潜伏者も家屋とともに焼死せし由にて、鎮火の後、窖中焼死者は皆其相貌明かならず、中に就て大塩家定紋付の脛当焼燼の中に在りけるに依て、大塩父子焼死すとて局を終れり、さて天草にありては七名の者、縁に随て一時薩摩にも赴きたれども、久敷潜伏し難ければ、遂に清国福州地方へ渡航し、居歳余にして大塩父子は壹名を従ひ、欧洲へ航せしより其之く所を知らず、翁及び四名は清国に居るを四年にして長崎に還れり、其清国に在ては寺院に寓し、或は医に就て其術を学びたるによって長崎に帰り、亦シーボルトに就て洋医の術を学びける時、恰も我先師帆足文簡先生の門人にて、後に島原藩に帰せられたる賀来佐一、亦シーボルトの門に在て親く相交りたる縁に由て、翁と佐藤文亭とは後に天草島原の間に在て、方を為し医を業とせしに、其後文亭は病歿し、翁は明治八年、其二女伊藤みき孫美継と与に大阪に帰り、十年十一月病歿せり、仍て其墓碑を立し時、此顛末の概を聞て碑文を綴り、又此事のあらましを記しおけり、其墓表左の如し
―とあって墓表の碑文はさきに書いたことと同じことが書かれており、これに続く文章も冗長にわたるので省略したが、この奥の論旨には史実と相違する箇所が多々あるが、これは伝聞伝承の風化によるものであろうか。
この欧洲失踪説に対し、翌年の明治二十七年に『古今史譚』五巻で後凋生なるものが「大塩平八郎父子欧洲渡航の弁妄」(2)と題してボロンチョンに反論している。
(註)
(1) 明治二十六年発行『史論』第二号七五頁〜八一頁「大塩平八郎欧洲に失踪す」国立国会図書館蔵
(2) 明治二十七発行 楽直子・後凋生著『古今史譚』第五巻六八頁〜八五頁「大塩平八郎欧洲渡航の弁妄」国立国会図書館蔵
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