井形正寿
2003.2『大塩研究 第48号』より転載
しかし、その二年後の大正十年六月、大阪陽明学会内に学会の理論的指導者(講師)の高瀬武次郎(惺軒)らの旧思想派と、石崎東国らの新人派との間に於て内紛が起り、理事会も開催されず、機関誌『陽明主義』も一一七号(同年十月号)をもって休刊し、会活動は休眠状態に落ち入った。
翌十一年には、理事会は石崎に対し、幹事の辞職勧告を行うなど「大正の大塩騒動」へと発展したことが、新聞紙上で報道された。
さらに財団法人洗心洞文庫・大阪陽明学会は大正十一年から十三年にかけて、本山彦一を理事長とする「洗心洞文庫」と、石崎東国率いる「大阪陽明学会」の二つに分かれ、石崎にとっては、孤高の晩年ともいえる十年間を迎えることとなる。
(未完・続く)
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