「お美津がどんなに喜ぶだらうな。」
儀右衛門はほく/\もので、大阪心斎橋通りをあるいてゐた。
そのふところに、美しい京人形がしつかりとだかれてゐた。
「そらおみやげだぞ。」
さういつて出してやつたら、お美津がどんなにうれしがるだらうなあ。あ
のかはいゝ頬にこの人形をぴつたりとおしつけて、さぞ喜ぶだらうなあ……
儀右衛門は、自分までが嬉しくなつてしまつた。
夜であつた。二月の冷たい風は、土ぼこりをあげて、うづをまきながら、
街中を吹きすさんでゐた。
春の来るのはまだとほい。けれど、彼の心の中には、うらゝかな春霞が立
ちこめはじめたゐた。
時計と懐中燭台の売行きのよいおかげで、彼のくらしも楽になり、もう妻
には内職をさせないばかりか、かうして、娘にも京人形のおみやげを買つて
やれる程にまでなつたのである。
儀右衛門は、娘の喜ぶ顔を想像しながら、あたゝかい気持で家路へいそい
でゐた。
「おやつ!」
とつぜん、彼は立ちどまつた。どこかで、けたゝましい半鐘の音が聞えた
のである。
「火事か、……近いぞ。」
さう思つた時、うしろの方からごうんごうんとぶきみなひゞきが流れて来
た。
わあつ、と、人々のさけびが、わき起つた。
「たゞごとではないぞ。」
儀右衛門は、胸さわぎがした。
すぐ眼の前の屋根のむかふに、もつくりと噴きあがつた入道雲のやうな黒
煙が、ばあつとわれると、真赤な炎がめら/\と立ちのぼつた。
う ち
「やつ、自宅の方角だつ。」
あわてて尻をはしよつて、草履をぬぎすてたが、火事場で釘を踏みふいて
はあぶないと、気がつくと、いそいで眼についた下駄屋にとびこんで、一足
もとめて、走り出した。
こんな急な場合にも、これだけのことに気がつく儀右衛門である。
走つた、走つた。いつか懐の京人形をふりおとしてゐたのも気がつかない。
横町といふ横町から、人の流がうづまいて来る。しかも、だれひとり消火
の支度をしてはゐない。
たゞ、「わつ/\」と、のゝしりさわぎ、家財道具もそつちのけ、親子も
わかれわかれとなり、女・子供は泣きわめき、、命から/゛\逃げようとす
るありさまは、たゞの火事さわぎとは思はれない。
「ど、どこが火元です。」
走りながら、儀右衛門はたづねた。
「方々中だあ、ほら、あつちもだあ。」
ふりかへると、うしろにも、右にも左にも、火の手があがつてゐた。
火勢は、しだいにすさまじくなつた。大空に凍りついてゐた星も、焔にな
められて熔け落ちてしまつたかと思はれるばかり、大空はくらく、盛りあが
り噴きあがる火の粉が、上へ下へとうづまいてゐた。
がう/\と真赤な熱風が、東西南北に吹きまはり、荒れくるつた。
これは天保八年二月の夜のことで、大塩平八郎の同志の者が、大阪市中に
火を放つたからであつた。
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