Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.11.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


『科学日本の先駆者 田中久重』(抄)その2
池田宣政

三省堂 1941

◇禁転載◇

大塩平八郎の乱(2)管理人註

 天保七年、諸国の大凶作のために、米の直段がおそろしくあがり、一升、 銭四百文にもなつたので、人々は苦しんだ。  しかも、幕府の役人の町奉行や、またお金持などは、この貧民の苦しみを すくふ方法を知らなかった。  翌年には、貧民はいよ/\多く、飢ゑたふれて死ぬものが、道に充ち満つ るほどの惨状となつた。  大阪の与力であつた大塩平八郎は、これを見て、幕府のたくはへた米を配 給して貧民をすくふことを申し出たが、幕府はこれをゆるさなかつた。  これに憤激した平八郎は、「貧民を救ふため」と称して、同志をあつめ、 市中に火をはなち、暴徒を指揮して大阪城におしよせたが、つひにうちやぶ られて自殺した。これを世に、大塩平八郎の乱といつてゐる。  いま、その大火事が、市中を焼きはらつてゐるのである。  大阪の人々は、きちがひのやうになつた。その家々は、片つぱしから火の うづにまきこまれ、大空には黒煙がたちこめてゐた。  「おう!」と、儀右衛門は絶望の声をあげた。  上町は火の海である。彼の家は、猛火のたゞ中に沈んでしまつた。  すべてのものが火にのまれ、灰となつてしまつたのである。  「妻やお美津は……。」  わが家のそばまで飛んで来た彼は、鉛色に青ざめた頬をひきつらせ、血ば しつた眼をみひらいて、吹きあふる真赤な風の中へ走りこまうとした。その 時、  「あなたつ!」「お父さん!」  妻と、娘が、右と左からひしと、彼にしがみついた。  「おうつ、生きてゐてくれたか。」  儀右衛門は、二人を左右にだきしめた。



儀右衛門は
田中久重の
幼名
 


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