天保七年、諸国の大凶作のために、米の直段がおそろしくあがり、一升、
銭四百文にもなつたので、人々は苦しんだ。
しかも、幕府の役人の町奉行や、またお金持などは、この貧民の苦しみを
すくふ方法を知らなかった。
翌年には、貧民はいよ/\多く、飢ゑたふれて死ぬものが、道に充ち満つ
るほどの惨状となつた。
大阪の与力であつた大塩平八郎は、これを見て、幕府のたくはへた米を配
給して貧民をすくふことを申し出たが、幕府はこれをゆるさなかつた。
これに憤激した平八郎は、「貧民を救ふため」と称して、同志をあつめ、
市中に火をはなち、暴徒を指揮して大阪城におしよせたが、つひにうちやぶ
られて自殺した。これを世に、大塩平八郎の乱といつてゐる。
いま、その大火事が、市中を焼きはらつてゐるのである。
大阪の人々は、きちがひのやうになつた。その家々は、片つぱしから火の
うづにまきこまれ、大空には黒煙がたちこめてゐた。
「おう!」と、儀右衛門は絶望の声をあげた。
上町は火の海である。彼の家は、猛火のたゞ中に沈んでしまつた。
すべてのものが火にのまれ、灰となつてしまつたのである。
「妻やお美津は……。」
わが家のそばまで飛んで来た彼は、鉛色に青ざめた頬をひきつらせ、血ば
しつた眼をみひらいて、吹きあふる真赤な風の中へ走りこまうとした。その
時、
「あなたつ!」「お父さん!」
妻と、娘が、右と左からひしと、彼にしがみついた。
「おうつ、生きてゐてくれたか。」
儀右衛門は、二人を左右にだきしめた。
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