Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.12.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『科学日本の先駆者 田中久重』(抄)その3
池田宣政

三省堂 1941

◇禁転載◇

猛火にも焼けないもの管理人註

 数日の後、儀右衛門は妻子と共に焼跡に立つてゐた。  美しかつたきのふの町も、今は何一つない焼野原とかはつたみじめさ。そ こには、人間が汗と血をしぼつて築きあげた大きな富が、灰となつてゐるの である。  まだ、煙の立ちのぼる中を、焼けのこつた家財道具をさがしもとめる人々 の姿がさびしくあはれであつた。  儀右衛門は泣きたいほどであつた。彼のすべての財産はうしなはれたので ある。中でも、自分の生命をこめてつくりあげた、からくり人形の全部を灰 にしてしまつたことは、たとへやうのない悲しみであつた。  彼は、これから先のことを考へると、眼の前が真暗になつてしまつた。家 財道具といつしよに、自分の将来の希望さへも焼けうせたやうな気がして、 しばらく、ぼんやりとあたりを見まはしてゐた。           やけはい  彼は、ひとにぎりの焼灰をつかみあげた。  ≪長い間、骨をれづり、血をしぼるほどの苦心をしてつくりあげた生人形                     てのひら も、この灰になつてしまつたのか≫と、彼は掌の灰をじいつと見てゐたが、 きふにぱつと、灰を地面に投げすてた。  彼は、心の中でさけんだ。  「こゝにどんな猛火にも灰とならないわが手と、腕がある。おれは、この たくましい両手を持つてゐたのだ。」  彼は、両方の掌をひとし合はせて、ぎゆつとにぎりしめた。  「さうだ、この両腕がある以上、おれは無一物になつてもびくともしては ならないのだ。  この両腕で、がつしりと新しい仕事にしがみつくのだ。  どんな不運におそはれても、それを突きとばし、うちやぶる力が、この両 腕にこもつてゐるのだ。」  「不退転の心」といふ言葉が、はつきりと思ひ出されて、心に弾力がうま れて来た。  お美津のあかるい笑ひ声が聞えた。  物置小屋のあとであらう、なにひとつのこつてゐない焼跡に、沢庵漬の大 樽が二つ、のつそりと残つてゐるのを、お美津が見つけたからであつた。  「はつはつは、こ、こいつあ、をかしいや。」        ・・  儀右衛門もおよしもふき出した。笑ひ声が、心配や悲しみを一どにふきと ばしてしまつた。  「はははは」、平気な顔をして、のつそりとかまへてゐる。  「でも、よく焼けなかつたなあ。」  儀右衛門は、その二樽をかついで、近くの野原に避難してゐる貧民にほど こしてしまつた。  さうして、さば/\とした気持で、妻子とともに、伏見へ向かつて去つた。 新しい希望の光を求めて……

   
 


『科学日本の先駆者 田中久重』(抄)目次/その2

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