天保三年季候不順にして、諸国概ね凶歉、僅に中国のみ此惨事を免かれた
りしに、翌四年、奥羽一般夏猶冬の如く、為めに作毛不熟、且中国亦凶歉、
ために飢民所々蜂起せしに、此災厄三ケ年に渉りしを以て、江戸に白昼餓
を見るの惨況に陥りしかば、幕府は、所々に於て、貧民に米銭を与へて
救助する事二ケ年に及ぶ、然るに五年六年は近畿の凶歉打続きしに、七年
に至り、殆ど作毛皆無の惨況となり、人民の飢餓に苦しむ者、日に多きを
加へければ、大阪町奉行附与力大塩格之助の父平八郎、今は退隠して文武
の教授を業となせしが、之を見るに忍びず、屡々旧知の輩に救民救助を勧
告すと雖も、大阪は元来商業地なるを以て、斯米価の騰貴せるを機として
巨利を占んとするものこそあれ、私財を散じて救助に資するなどは、夢想
だもせざる情態なれば、尚旧僚友に謀り、町奉行に建議して救助の方を立
んとせしも、容られざるより、遂に暴発するに至れり、元来此平八郎は、
与力中の最旧家にて、元名以来地方五十石を領す、故を以て同僚中の推す
所となる、且平八郎、幼より文武に励精し、殊に学問は陽明学を修め、平
素王守仁を欣慕し、所謂知行合一致を以て自ら励む、故を以て与力として
断獄に当るや、いかなる難訟も彼か手に依れば、殆ど竹を割るか如く、些
の凝滞なし、彼の文政九年、妖婦豊田貢を処分せるは、人の喧伝する所に
て、其略を述んに、肥前浪人にて水野軍記といふ者、京師に僑居し、表面
易術を以てせるも、内々怪敷祈祷等をなして愚民を誑惑せしに、貢は其奥
秘を伝へたりと自称し、京畿の間を徘徊して愚民を惑す、其奉ずる所は神
儒仏を離れ。頗る奇怪の行為あるをもて、屡々幕府の奉行等の下吏、之を
捕へて糾弾するも、貢、女子と雖も、やゝ学識あり、且弁舌巧みなるがた
め、遂に伏罪せしむるを得ず、故に日を遂ふて名声愚民の間に高く、彼を
目して活神仏となすものさへあり、平八郎、之を怒り、百方術計を尽して、
彼が教旨の奥秘なるものを探知し、妄誕無稽の邪説を以て良民を惑すとな
し、遂に貢以下其徒数人を礫死罪等の厳刑に処し、邪教頓に蹟を絶てり、
之に依て時の大阪町奉行矢部駿河守定謙、平八郎の才気を信任し、大小の
事態悉く彼に諮詢せるより、亦其知眷に感じ、力を尽して翼賛し、大阪府
下の民政に於て、釐正する所多く、一時を震動するに至れり、
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