Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩の乱と西城罹災」(抄)
その1

池田晃淵

『徳川幕府時代史』 早稲田大学出版部 1904 収録

◇禁転載◇

第八章 修正時代
 大塩の乱と西城罹災 付家斉の薨去 (1)

管理人註
   

天保三年季候不順にして、諸国概ね凶歉、僅に中国のみ此惨事を免かれた りしに、翌四年、奥羽一般夏猶冬の如く、為めに作毛不熟、且中国亦凶歉、 ために飢民所々蜂起せしに、此災厄三ケ年に渉りしを以て、江戸に白昼餓 を見るの惨況に陥りしかば、幕府は、所々に於て、貧民に米銭を与へて 救助する事二ケ年に及ぶ、然るに五年六年は近畿の凶歉打続きしに、七年 に至り、殆ど作毛皆無の惨況となり、人民の飢餓に苦しむ者、日に多きを 加へければ、大阪町奉行附与力大塩格之助の父平八郎、今は退隠して文武 の教授を業となせしが、之を見るに忍びず、屡々旧知の輩に救民救助を勧 告すと雖も、大阪は元来商業地なるを以て、斯米価の騰貴せるを機として 巨利を占んとするものこそあれ、私財を散じて救助に資するなどは、夢想 だもせざる情態なれば、尚旧僚友に謀り、町奉行に建議して救助の方を立 んとせしも、容られざるより、遂に暴発するに至れり、元来此平八郎は、 与力中の最旧家にて、元名以来地方五十石を領す、故を以て同僚中の推す 所となる、且平八郎、幼より文武に励精し、殊に学問は陽明学を修め、平 素王守仁を欣慕し、所謂知行合一致を以て自ら励む、故を以て与力として 断獄に当るや、いかなる難訟も彼か手に依れば、殆ど竹を割るか如く、些 の凝滞なし、彼の文政九年、妖婦豊田貢を処分せるは、人の喧伝する所に て、其略を述んに、肥前浪人にて水野軍記といふ者、京師に僑居し、表面 易術を以てせるも、内々怪敷祈祷等をなして愚民を誑惑せしに、貢は其奥 秘を伝へたりと自称し、京畿の間を徘徊して愚民を惑す、其奉ずる所は神 儒仏を離れ。頗る奇怪の行為あるをもて、屡々幕府の奉行等の下吏、之を 捕へて糾弾するも、貢、女子と雖も、やゝ学識あり、且弁舌巧みなるがた め、遂に伏罪せしむるを得ず、故に日を遂ふて名声愚民の間に高く、彼を 目して活神仏となすものさへあり、平八郎、之を怒り、百方術計を尽して、 彼が教旨の奥秘なるものを探知し、妄誕無稽の邪説を以て良民を惑すとな し、遂に貢以下其徒数人を礫死罪等の厳刑に処し、邪教頓に蹟を絶てり、 之に依て時の大阪町奉行矢部駿河守定謙、平八郎の才気を信任し、大小の 事態悉く彼に諮詢せるより、亦其知眷に感じ、力を尽して翼賛し、大阪府 下の民政に於て、釐正する所多く、一時を震動するに至れり、

   


「大塩の乱と西城罹災」目次/その2

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