Я[大塩の乱 資料館]Я 2000.8.8修正

2000.7.25

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大塩の乱関係論文集目次


「大阪城の衛戌勤番制度」

今井 貫一 (1870〜1940)

『上方 第11号 大阪城研究号』上方郷土研究会編 創元社 1931.11 所収


◇禁転載◇

 元和五年七月二十二日、江戸幕府は大阪の城主松平忠明を大和郡山に移封して以来、大阪三郷を直領とし、大阪城には勤番の諸員を簡派して衛戌の任に当らしめたが、明治元年正月、将軍慶喜、大阪退城、幕府瓦解に至るまで二百四十九年間、この直轄制度は変るところはなかつたのである。

 幕府が大阪を親藩又は譜代の諸侯にも与へず、之れを直轄としたのは、其理由勿論一二に止まらぬことであらうが、大阪城の要害堅固を怖れたことは、重なる理由の一であつたと思ふ。抑も大阪城は、初め天文年間本願寺の宗主證如がこゝを本山に充て、法敵防禦の法城と為し、武装を固くして、近畿地方は勿論、遠く北陸東海中国にも威力を振ふたのを始めとし顕如の時には元亀より天正に至る約十年間、信長が旭日冲天の勢を以て此の法域に攻めかゝつたが遂に抜くことが出来ず漸く正親町天皇の叡慮を煩はして媾和開城せしむることを得たのである。次で秀吉が兵権を握るや特に此地を選んで居城と為し、大に修築の工を越し、規模を拡張して益々堅固を加ヘ、豊公の威望と共に威風四海を圧するの名城となつた。かやうにして大阪城は天下の重鎮として怖れられ嘱目せらるゝに至つた。又家康の戦上手を以てしても一挙に此堅城を陥ることが出来ず、策謀苦戦、辛うじて落城せしむることを得たる苦き経験は徳川氏の忘るゝ能はざるところであつた。此の如く威力雙びなき堅城であるから、之れを諸侯の手に渡すことは禍をのこす怖があるので、極力動乱防止につとめたる江戸幕府としては此城地を最も重親したのである。加ふるに幕府は此城を所有し、関西諸侯に対する兵備ともしたのである。幕末長州征伐の時将軍此城に拠つて号令したのは其実例とも見るべきである。かやうな訳であるから家康の孫である下総守忠明でさへこゝに在城せしむるを好まず取り上げて幕府直轄の衛戌としたのである。

 右のやうな訳であるから、幕府はこの大阪城に城代以下譜代の諸侯並に旗下の士を派遣して衛戌勤番に当らしめても、之をー人一家の所管とせずして諸種の勤番員を置き、又其勤番員は京都所司代のやうに世襲的に長く在番せしむことなく、極めて短期間、多くは多くは一二年間にして交替せしむる方策を執つたのである。定番の在職期間の短かゝつたのは、勿論他にも理由があるが、一は此名城から魔がさして異心の起るのを予防したと見るのが当つて居ると思はれる。

 大阪城勤番の制度は元和五年七月内藤紀伊守信政が最初の城代として、定番加番大番等を率ひて警衛の任に当つてから明治元年最後の城代牧野越中守貞明に至るまで七十二代の長い間には、諸員の在勤年数其他に、度々変改もあつたが、最も普通に且長く行はれた勤番の制度は次に説明する如くである。

 勤番の職員としては最上位に城代があり、其下に定番、大番、加番があつて各部署を定め、本丸、二ノ丸、三ノ丸の諸門及要所々々に就て警衛の任に当つたのである。城代は五六万石から七八万石の譜代大名が選任せられ、任期は普通一年又は二年であつた。併し中には十数年の長期に亙つたものもあつて、七十二代の平均在任期は三年半弱となつて居る。城代は或は今の師団長の如きものと見ることが出来る。唯師団長は単身任に就き、師団管下の壮丁を以て組織する軍隊を統督するのであるが、城代は自家の家来を多勢引率して城地警衛の総大将の任に就くのであるから其赴任は極めて大袈裟である。前任後任交代は或時は九月十五日と期日を限定したこともある。城代屋敷は城内にては追手門内千貫矢倉の地、西ノ丸の南にあり、城外には城南広小路附近から連隊敷地に亙つて広大なる下屋敷を構へた。城代は将軍の直命直属であり、申さば江戸将軍に代つて城を守護する大任であるから総司令官として武士の権威を以て勤番諸員に臨んだことは勿論である。定番、加番などは同じく諸侯であり、大番衆は将軍旗下の士であつて、何れも同僚と申すべきものであるが、此等の諸員に対しては、恰も家臣に対するが如き権威を示したものである。城代は此の如く総指揮者であるが、警衛の持場としては追手門内外を分担し、引率せる家臣、足軽をして日夜当番せしめたのである。城代には役知壱万石を給与せられる規定である。

 定番は同時に二人あつて、京橋口及び玉造口のかために備へたのである。元和九年に初めて高木主水正正次を京橋口定番、稲垣摂津守重綱を玉造口定番と為してより、慶応三年最後の定番たる京橋口の本多肥後守忠隣、玉造口の稲垣若狭守太清に至るまで京橋口には二十九人 八年半強 玉造口には二十八人 九年弱 の定番が勤務した。定番は一二万石の諸侯が選任せられ其職名の如く、京橋口定番は京橋口内外、北ノ外曲輪から、京橋見付の筋鉄門、即ち三ノ丸の要所を警衛の持場とし、城内屋敷は京橋口桝形ノ北東に、城外下屋敷は始めは城南城代屋敷の西に、後には鴫野橋附近にあつた。玉造口定番は玉造口内外から二ノ丸の東中仕切即ち築違仕切を持場とし城内屋敷は玉造口桝形の北、城外下屋敷は城代下屋敷の東にあつた。京橋玉造共に各与力三十騎同心百人の地下役人が附属し持場各門其他の警衛を担任したのである。定番の役料は三千俵を給せらる。

 大番は、幕府にて大阪城、二條城及び駿府の三ケ所警衛の為めに設けたる常備の大番衆十二組のうち、二組づつ、毎年時を定めて交代にて大阪に来り警護の任に就いたものである。之れは幕府より直接に派遣せられるもので、悉く旗本である。城代定番又は加番などに比して格は低いが、これが勤番中の本番とも正番とも云ふべきものである。各組は四人の組頭を有する大番衆五十人を以て組織し、これを一人の大番頭が統率指揮する。即ち一組には大番頭一人、組頭四人、番衆四十六人、合計五十一人を以て一隊を為す勘定である。江戸より派遣の此大番衆以外に、各組に大阪地下の与力十騎、同心二十人が附属し、此人数、二組合計百六十二人を以て、本丸全部及びニノ丸の南部桜門外に於て、追手より玉造口の間を警衛するのである。大番衆二組は桜門前を境として東西に分れて宿衛するのであるから、本来の組名は一番組二番組三番組と云やうに称へてゐるが、大阪では、別に又東大番組西大番組とも云ふて居る。番頭は多くは五千石位の高級旗本であつて、若し五千石以下の者、之に当るときは五千石までの足高を給せらる。時には又壱万石以上の小諸侯が任ぜられたこともある。大番衆は全然城内居住であつて、東の番頭ハ玉造口桝形の北に、西の番頭は追手桝形の東南、太鼓櫓の下に、夫々広大なる屋敷が設けられ、番衆は二ノ丸南部警衛地に設けたる、謂ゆる百軒長屋に居住するのである。

 大番衆勤務方に就ては詳細に規定せられ、其江戸出発の日、大阪にての前後番交代 の日時、交代の様式までも厳重に定あられてゐる。前に申した如く一年交代であるが、東大番頭は七月二十三日、西大番頭はそれより六日目の同月二十八日に江戸出発、夫々大阪に着したる上、東大番頭は八月五日に仮御城入を為す。仮城入とは正式の入城前に仮りに入城して城代、定番及び前大番頭などに挨拶並に交代打合を為すのである。次で七日に正式の御入城を玉造口より為し、番衆は八月八九の両日に二十五人づつ二手に別けて追手より入城する。西大番頭は八月十日に仮、同十二日に正式の御入城を追手より為し、番衆は八月十、十一の両日に東同様二隊に分れて入城し、夫々固め場に就くのである。新旧番衆の交代には新番の一隊、早朝に追手門前に整列して時刻を待ち、旧番衆が定刻に隊伍を整へて退城すると、代つて入城する。これを小交代と云ひ、番頭の入退城は大交代と称ヘ、美々しき行列を立て、威風堂々として交代を行ふもので、其日は市中男女追手外に群集して,その行列を見物したといふことである。番頭交代には夫々所管の引継などが行はれることは申すまでもない。

 加番は、大番衆の加勢として勤番に当るもので、普通には四人ある。一加番たる山里加番は山里丸及び極楽橋外の二ノ丸を、二加番たる中小屋加番は二ノ丸青屋口を、三加番たる青屋口加番と、四加番たる雁木坂加番は半月交代にて二ノ丸雁木坂を警衛するのである。即ち四人の加番は二手に分れて東西大番衆の加勢を為すものである。何れの諸侯にして役知壱万両を給せられ、家臣足軽を引率して任に就く。中にも山里加番は最も重く大抵三四万石の諸侯が選任せられ、他の三加番は一二万石中より選ばれる。兎に角一万石と云ふ巨額の給米があるから手元窮乏の小大名は此所役を希望し、就任を喜んだといふことである。任期は大番衆同様一ケ年であつて、其交代の期日其他の規定も厳重に定められてゐる。即ち七月十五日より十八日の間に四人とも夫々江戸を出発し、八月二日には新加番四人打揃ふて仮入場を為し、旧加番、定番、大番頭、目付、町奉行等と共に城代屋敷に会して、挨拶の交換及び交代打合わせを為し、次で一加番が三日に京橋口から、三加番が四日に追手から、二加番が五日に玉造口から、四加番が六日に玉造口から、夫々華麗なる行列を立てゝ正式入城を行ふ。例へば、追手より入退する加番の交代には新在番者は、未明より追手門外南方に整列して時刻の到を待ち同じく早朝に、追手門より旧加番衆の退城したる後、入城する。此時城代は追手北寄りの大番所に出座し、在番の目付が立会ひ、新旧加番より夫々挨拶を受け、城代は塗り三方に熨斗を載せたるを出して、無事の入城退城を祝するのである。加番衆は山里丸、二ノ丸、青屋口中小屋にある屋敷其他の番衆小屋に居住する。

 以上が大阪城衛戌勤番の諸員であつて、此人数を以て三十三ケ所の諸門と内外約五十ケ所の番所を警衛するものである。大阪城勤番中には以上の外に江戸より目付が派遣せられる。目付は二人にて一人は使番から、一人は書院番及び小姓組から選ばれ三月六日、九月六日の一年両度交代にて任に就くを普通とする。在番者ではあるが、其任務とする所は老中の命を受けて非常監察に当るもので直接衛戌に当るのではない。衛戌の勤番としては以上の城代、定番、大番、加番の四種である。

 大阪城衛戊勤番の二百五十年間は、幸に天下泰平であつて、僅かに大塩騒動の外、この城を脅かすやうな事態は一切なかつたのであるから、衛戌力の実際の強弱は知ることが出来ぬが、仮へ寄り合の勤番衆といへとも、此名城に拠ることに依て相当に四方を威圧したものである。

図4枚 享保八年大阪袖鑑 所収 (略)



参考
松尾美恵子「大坂加番の一年 −「豊城加番手挫」より−」

大阪城天守閣『大坂加番記録 1、2』1997、1999

小野清『大阪城誌 上 中 下』1899(名著出版 復刻 1973)
松岡利郎『大阪城の歴史と構造』名著出版 1988


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