Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.9
2003.2.11訂正

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大塩の乱関係論文集目次


今古民権開宗 大 塩 平 八 郎 言 行 録」

その1

井上仙次郎編

山口恒七 1879刊 より


◇禁転載◇

(句読点・改行を適宜加えています。)



大塩平八郎ハ、大坂天満組東町奉行跡部山城守の組与力、大塩格之助の養父にして、文武の道に疎からす。性質豪邁にして気慨あり。毎に明王陽明の説を信し、子弟に教授す。号を中斎と称し、洗心洞と言ふ。太平の余沢溢れ、人々驕奢に走り、在上の吏人私欲を恣にして、賄賂公行するの弊風を嘆し、之を一掃せんと想ふこと日久し。

初め高井山城守の大阪町奉行たるや、擢用せられて吟味役と為り、大に名望あり。紀伊国と和泉国岸和田領との境界論ありて、積年其局を畢らす、諸吏、常に紀州侯の徳川家の三家たるを憚り、岸和田の理たるを知れとも、之れを能く裁決して公平ならしむること能はす。平八郎吟味役を命せらるヽや、直に之を審理し、其證を挙て、岸和田の直たるを明断し、年来の難訟平穏に帰したり。

其後、京都八阪に豊田貢といへる巫女あり。切支丹の妖術を水野軍記より伝授ハ錬し、不思議の祈り等を為し、死に垂んとせし病人をも蘇生せしむる奇妙不可思議の術者にて、数多の弟子を集め、種々の悪事を働きしかは、町奉行所にても探偵し、遂に拷問呵責に及ひけるに、白状を為さヾれは、如何かせんと思案にくれしに、平八郎、才力にて、難なく問荅の間に問ひ落し、終に重罪に処し、其同類豊田貢女、播磨屋きぬ、糸屋さの、伊良子屋桂蔵、高見屋平蔵、及び、顕蔵等を磔刑に致す抔尋常の与力にハ為し難き器量ゆへ、後にハ、例規なき提け力(刀)をも許されしかハ、同役の嫉妬も亦多しとか。其後、高井城州転役して江戸に下りけれハ、新奉行赴任せハ、同僚の讒言にて勤も覚束なからんかと案し、功成り名遂けてハ身退くに若かすと思ひ、退隠し、専ら文を講し、殊に軍書を研窮せり。

隠居せし時、松隠集と号する書を著ハす。

其詩に曰く

平八郎実子なかりしかハと、人より同与力の中に有縁ある、西田青太夫と云う者の弟、格之助を養子と為し置きし故、これに家督を譲りしなり。

平生一家を治むるに、身常に節倹を旨とし、かりにも驕奢の所行なかりき。其用ゐる所の印にハ、聖朝吏隠の四字を刻し、数十人の門生常に出入せり。


『大塩平八郎言行録』目次/その2

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