Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.9
2003.2.11訂正

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大塩の乱関係論文集目次


今古民権開宗 大 塩 平 八 郎 言 行 録」

その2

井上仙次郎編

山口恒七 1879刊 より


◇禁転載◇

(句読点・改行を適宜加えています。)


其頃、不作打続き、米価抔も挌外の高価にて、殊に連年のことなれハ、町屋ハ固より農家も困窮し、窮民飢寒に苦しむの有様を見て、在上の官吏等、専ら賄賂等によりて事を処し、私恣に圧くことを知らす、依怙贔負(ママ)の処分のみ多きより、終に、下情の上達せさるならんと考へ、賑恤の策を建てヽ、隠居の身分をも憚らす、養子格之助と共に、奉行跡部山城守へ上書して、巨豪富商、鴻池、米平、三井、岩城等を説諭し、金銀米穀をハ窮民に賑恤せしめんとせしに、跡部城州、之を用ゐさるを以て、平八郎大に本意を失ひけれとも、亦如何とも為し難く、因て、年来蓄ふ所の書籍をは一部も残さす北久太郎町なる河内屋新次郎と云へる書肆に売却せしに、数万巻の蔵書なれハ、金六百二十五両の巨額に至りしを、之れをは壹朱つヽとし、新次郎をして窮民に施さしめけれとも、窮乏の民多けれハ、百分の一にも行届かす。

然るに此年も春頃より霖雨降りつヽき、盛夏にても単衣抔を着る日ハたへてなく、其上、雑穀さへも不作にて、奥羽辺は六月十五日の暴風に田野を荒らし、関東にても其余波をうけ、少し穀物にさしひヾきけれとも、格別のことならねハ、人民安堵の思ひを為しにけり。

然るに、八月朔日の暮頃より、再ひ大風雨にて、東南の方より荒れ出し、河溢れ山崩れ道路を行くことなり難く、同しく十二日にハ、古今未曾有ともいふ可き風雨にて、東海道諸国抔は民家を倒し、田畑に水溢れ、作物を推し流しけれは、食物と為す可き者なく、飢饉に逼まり、都鄙とも米殻諸色一時に沸騰し、米壹升の価三百文に及へり。幕府の諸役人達、之れ憂ひ、窮乏の者を救ハんとして屡糒倉を発して之を振恤し、富有の商家も金銀を出して、吾か地面内に住する者、或は其隣町の者抔に施せとも、唯今年のみの違作にもあらす。十年に降、年々不作せしことゆへ行届かす。

然るに大阪は、前の町奉行矢部駿河守の仕置よかりしかは、米価も壹升に付百五十文より二百文まてにて、殊に豪富の家に蓄への分もあれは、来秋頃迄の飯米にハ乏しからす。

然るに此頃江川(江州か)不作なるゆへ、京都ハ米価大に騰貴し、品きれにて難渋のよしきこへ、大阪より日々米二千俵運送のことに定めけれども、行届かゝす、益飢餓に陥れハ、奉行所の計ひとして、京都の人口凡二千万人(二十万人か)に、壹人一日米貮合の割合を限りとし、廻米せしめけり。江戸ハ京都大阪にもまして、大都会ゆへ、諸国よりの運曹も便利なれとも、六十余州より飢餓を避けて輻湊したれは、遊民の数、幾百万人なるをしるへからす。矢部駿河守江戸に在りて、大阪には米穀の余裕あることを胸中に計算すれハ、大坂町奉行に達し、米穀廻漕をそ命しけり。

是に於て、平八郎大に憤り曰く、

といひ、遂に一族門弟等を会し、密計を告けしに、同気相求め同類相応し、之に徒党する面々にハ、組与力小泉淵治(次)郎、瀬田済之助、同心渡辺良左衛門、吉見九郎右衛門、近藤梶五郎、庄司磯(儀)右衛門、大井正一郎、竹上万太郎、河合郷右衛門、平山助治(次)郎等にて、其他浮浪の徒にハ、平八郎の伯父河内国(摂津国)吹田村の神職宮脇志摩、彦根の浪士梅田源左衛門、安田図書、松本林太夫、郷民の名ある者には、摂州般若寺村の名主橋本忠兵衛、守口宿の質屋三郎兵衛、同宿名主茨田軍治、同苗斎治、其外、上田幸太郎、西村利三郎、高橋九右衛門、梶岡源右衛門、同伝七、志村周治、堀井磯三郎、河辺長助、曽我岩蔵、市田治郎兵衛、額田市右衛門、今井磯四郎、横山文助等、連判状に誓詞血判して、一味合体をそ表しけり。


『大塩平八郎言行録』目次/その1/その3

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