中斎が所謂太虚は或は仏教の空に類するが如きことあるも、到底之れと同一視すべきものにあらず、仏教の虚は、現象を超絶せる空にして、形而上的の旨趣あり、然れども中斎の概念は徹頭徹尾具体的なり、是故に其太虚の如きも、寧ろ現象界の空間を指して言ふに過ぎず、是故に太虚と個人の関係を説く所、頗る婆羅門教の「ブラーフマン」の説に類すと雖も、婆羅門教の如く、形而上的ならず、哲学としては、尚ほ幼穉なる観念あるを免れざるなり、箚記の上に云く、
眼を開いて天地と俯仰して以て之れを観れば、則ち壌石は則ち吾が 肉骨、草木は則ち吾が毛髪、雨水川流は則ち吾が膏血精液、雲煙風籟は則ち吾が呼吸吹嘘、日月星辰の光は、則ち吾が両眼の光、春夏秋冬の運は、則ち吾が五常の運にして、太虚は則ち吾が心の蘊なり、鳴呼人七尺の体にして、天地と斉しきこと則ち此の如し、三才の称、豈に徒然ならんや、宜しく気質を変化し、以て太虚の体に復すベきなり、
此れに由りて之れを観れば、中斎は世界を大なる人体の如くに思惟せり、「ブリハド、アーラニヤカ、ウパニシヤド」の初めに世界を供犠馬 Opferross の身体として形容せる処、甚だ之れに似たるものあり、又大自在天派が世界を大自在天の身体とする観念も亦之れと相類するものあり、(百論疏上中を参看せよ)要するに、是等の想像は奇は太だ奇なれとも、思想の幼稚なるより起るものなり、
中斎はは身体の虚を心の本体とせり、然るに身外の虚は即ち無限の空間にして一切万物を包容す、是故に身外の虚を以て心の本体とせば、心の本体は一切万物を包容するものなり、
其世界観たる、殆んど唯心論の如くにして未だ全く唯心論といふを得ず、彼れが観念余りに具体的にして、唯々空間を以て心の本体とするを知りて、未だ一切万物も亦心の所現といふに至らざればなり、空間が果して心の本体ならば、空間中に【土眞】塞する一切万物は何等として解釈すべきか、空虚 Vucuum の心たることは姑く之れを許容せん、然れども充塞 Plenum の何たるかは遂に了解し得られず、若し中斎にして一層深く推論せば、更に一転して充塞も亦心に過ぎずと道破し、心外無別法と同一の結論に到達せしならんも、彼れは終局まで現象を超絶するの眼光を有せざりき、是れ其思想家として浅薄の【此/言】を免れざる所以なり
其他太虚に就いては尚ほ誤謬の指摘すべきものあり、何ぞや、中斎は物質界の空虚と精神界の空虚と混同して其差別を看過せり、中斎の考
にては吾人方寸の虚は直に身外の太虚に通じ、彼れと此れと区別なしとするものなり、然るに吾人方寸の虚とは、情欲を打ち払つて鑑空衡平に帰したる心を謂ふなり、然れども此の如き虚は全く精神上の虚にして身外の虚に通ずといふべきにあらず、若し身外の虚と相通ずるものを求めば、心臓中の虚に於てせざるべからず、然れども斯くするときは、何れの虚も物理上の虚たるに止まりて道徳上の旨趣は遂に得らるべくもあらざるなり、
箚記の上に云く、
心は即ち五臓の心にして、別に心なるものあるにあらざるなり、其五臓の心は、僅に方寸にして天理を薀蓄す、
箚記の下に云く、
ロ耳の虚より五臓方寸の虚に至るまで、皆是れ太虚の虚なり、而して太虚の霊は、尽々く五臓方寸の虚に萃まる、便ち是れ仁義礼智の家する所なり、云云、
中斎は此の如く、物理上の虚たる心臓の虚と無形に属する精神上の虚とを混同せり、仮令ひ心臓の虚は身外の虚に通ずとするも、此れに由りて精神上の虚も亦身外の虚に通ずといふを得んや、是れ、中斎が心てふものゝ観念に於て曖昧模糊なりしが為めに起れる結果なること疑なきなり、
中斎は又形質あるものは、如何に広大なるも生滅を免れず、独り虚は滅することなし、唾壷の虚と雖も、其虚は太虚に帰して万古不滅なるものなりとせり、虚の滅せざること、何人も否定せざる所にして固より論証を竢たざるなり、然れども唯々虚のみ不滅なりとするは謬見なり、
現象界の生滅は尽々く仮現的 apparent にして真に生滅あるにあらず、一塵と雖も、侮るべからず、是れ永遠不滅のものなればなり、吾人は一粒の米と雖も造ること能はず、又滅すること能はず、凡そ造るといふもの、真に造るにあらず、凡そ滅すといふもの真に滅するにあらず、造るといひ、滅すといふものは、皆変化に過ぎず、変化は変化するもの、実質に関するにあらず、実質は去来今に渉りて変化せざるものなり、物質不滅論の如き、勢用
保存説の如き、皆実質の不変を証するものなり、
是故に独り虚のみ、不変といふべきにあらず、形質あるものも、亦不変なり、状態は変化すべきも、実質は之れに拘はらざるなり、果して然らば、唯々唾壷の虚のみ太虚に帰して不滅なるにあらす、唾壺の実質も世界の実質に帰して不滅なるものなり、是に至りて中斎の学の未だ備はらざるもの少しとせざるを知るべきなり、