古来和漢の学者は経学を以て第一となし、最もカを経学に尽くせり、経学の中には千古不磨の格言多く、研究いかんによりては、身を立て道を行ふに余ありと謂ふべし、
是を以て当時の学者が力を此に用ひたるは決して不可なりとせす、
然れども経学を重んずる所より或は一転して読書の一才に走り、遂に終身訓詁の研究に埋没して反りて徳行に於ては欠くる所あるものあり、是を以て古人已に之れを戒むること切なり、陸象山曰く、
読者固より、文義を暁らざるべからず、然れども只文義を暁るを以て足れりとせば、只児童の学、須く意思のある所を看るべし、
王陽明も亦曰く、
只心を解するを要す、心明白なれば、書自然に融会す、
其説の是は姑く之れを置き、読書に耽り、字句に泥み、毫も精神を取る能はざるの弊を道破せるは、自ら痛快の感なしとせず、
中斎も亦大に此に注意し、浮観博覧の弊を打撃せり、(学問の目的の説を参看せよ)
彼が学問の膚浅なるに拘はらず道義の一点に於ては当時の学者をして後に瞠若たらしむるに足る者ありしは、全く講学其法を得たるが為めなり
中斎が学は詞章を主とするにあらず、文義を主とするにあらず、唯々心をのみ明かにするを主とす、而して其目的は道義を実行して、聖賢の域に躋るにあるなり、
此の如くなれば、彼れが学問の工夫、固より不可なりとせず、然りと雖も唯々心をのみ明かにするを主とするが故に、其他迂廻せる研究は排してとらず、要するに、客観的研究は悉々く之れを度外視するの傾向あり、
唯々主観的に心を明かにすることを務むるのみにて道徳上得る所多きは、疑なし、
亦迂廻せる客観的研究の結果を参酌するよりは、直接に我方寸中に於て道徳的修練をなすの捷径なることも亦明かなり、
然れども客観的研究は心を明らかにするに不用なりといふを得ず、客観的事実の心理を解釈するに如何に重要なるかは、今日の実験心理、証して余りあるなり、
客観的研究を軽視するは、東洋哲学の通弊とはいへ、陽明学派にありては特に甚しく其害の及ぶ所決して鮮少なりとせざるなり、
即ち中斎が動植物の学を無益とするが如き、謬見の甚しきものなり、
学問は独り倫理に限らず、倫理以外に種々なる学科あるなり、倫理の必要は他の学科の必要を否定するものにあらざるなり、彼れ此点に於いて眼、明を欠けりと謂ふべきなり、
中斎此の如く客観的研究を軽視する所よりして、概して物理に暗く、特に迷信に類することなしとせず、彼れ以為く、心太虚に帰するの人は水に溺るゝことなしと、
箚記の上に云く、
内に虚なるものは誤まりて水に堕つれば、則ち皆浮んで沈まず、此れ特り虫豸禽獣のみならず、人と雖も亦然り、然れども人は則ち沈んで浮ばずして死す、十人にして十人、百人にして百人、曾て一の活者あるなし、何ぞや、此れ他なし、其水に堕つる、即ち生を欲し死を悪むの念を起すこと彼れより甚し、而して其念既に方寸に塞がる、故に方寸実にして虚にあらず、況んや一手を振ひ、脚を動かし、咽を破りて【口斗】号するをや、沈んで浮ばずして死す、此れを以てなり、如し其念と、動【口斗】となければ則ち必ず浮んで沈まずして活く、是れ天理なり、又奚ぞ異ならんや
人水中に入りて静かなれば、自ら浮ぶこと中斎が言ふ所の如し、然れども彼れは尚ほ一歩を進めて奇殆なることを叙述せり、云く、
或の曰く、裸裡なれば、則ち子の言の如き、或は然るものあらん、衣裳にして堕ちなば、則ちいかん、曰く、心、誠敬を存して太虚に帰するの人は 則ち数万仭の海底と雖も、徐に其帯を解き、其衣裳を脱す、是れ難なし、鳴呼此れ独り水に堕る時の術のみならんや、
中斎帰太虚の功を過大にして遂に此言をなす、其信念の厚きは固より 称揚すべしと雖も、亦迂闊の極、遂に迷信に界するものあるを自覚せざ るに至れり