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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 中 斎」 その1

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎 
第一 事 蹟
 (1)

中斎は豪邁奇矯の士なり、尋常一様の儒者にあらず、

其事蹟の如きは、世人の多く稔聞する所にして、哲学史上詳細に之れを叙述するの必要を見ず、吾人唯々其一斑を記載して、彼れが特性の存する所を認識すれば足れり、

中斎、姓は大塩、名は後素、字は子起、平八郎と称す、中斎は其号なり、又居る所の室を洗心洞と名づけ、自ら洗心洞主人といへり、洗心は易繋辞上に所謂「聖人以此洗心、退蔵于蜜」に本づくものなり、

中斎は徳島藩家老稲田九郎兵衛の臣真鍋市郎の二男にして、寛政五年を以て阿波国美馬郡脇町(即ち今の岩倉町字新町)に生まる、幼にして母を喪ひ、母の縁故によりて、大阪の塩田喜左衛門の養子となり、後故ありて之れを去り、天満町の与力大塩氏の養子となる、

大塩氏の祖先は今川氏に出づ、天正十八年小田原の役あるや、徳川家康の旗下に北條の将足立勘平を馬前に刺 したる一勇士あり、然るに其一勇士は即ち今川氏真の子にして今川波右衛門と呼ぶものなり、

曾て今川義元の桶峡の於て織田信長の為めに滅ぼさるヽや、其子氏真暗弱にして、父祖の領土を保つこと能はず、屡々武田信玄の為めに彊域を蠶食せられ、遂に遁竄の客となれり、

其妾に一男子あり、是れを今川波右衛門となす、彼れ多年漂泊するの後、徳川氏の臣松平甲蔵等と相識るに至り、彼等の推薦により、参州岡崎に至りて家康に謁するを得たり、

既にして彼れ小田原の戦功ありて弓を賜はり、且つ邑を伊豆の塚本村に食むを得たり、家康已に天下を戡定するに及んで、彼れは越後柏崎の定番に補せられ、未だ幾ならず、家康の子義直に随ひ、尾張に至り、祿二百石を食む、後姓を改めて大塩波右衛門と称し、寛永二年二月を以て卒す、

波右衛門に男子二人あり、二男を政之丞と称し、元和年間に大阪の与力となれり、

其後降りて寛政の頃に至り、平八郎といふものあり、亦与力たり、

中斎之れが養子となれり、時に七歳なりき、然るに養父母倶に其歳を以て没す、是を以て彼れは教養を養祖父政之丞に受けて生長せり、

此政之丞と前の政之丞とは其時代を異にするが故に其同一人にあらざるは言ふまでもなきなり、

吾人は彼れが幼時の状況に就いて毫も知る所なし、唯々彼れが幼少にして已に母を喪ひ、従ひて又故郷を離れ、塩田氏の養子となり、又転じて大塩氏の養子となり、其間少なからざる辛酸を嘗め、自ら激烈峻刻なる性格を鎔鑄せられたること疑なきなり、

唯々一の逸亊を伝ふるものあり、云く、「彼れ嘗て街上を行き、商家の二童、途上に擔荷を抛ち、拳撃格闘するを見、走り寄りて二童の髻を執り、汝等何ぞ其主用を忽にして、私争に勇むや、速に止めずんば、吾れ当に為す所あるべしと叱咤一番するや、二童之れに驚き、争を止めて倉皇謝し去れり、」と以て彼が既に東坡の所謂食牛の気ありしを想見するに足るなり、

中斎は幼少の時如何なる人を師として学を講せしか、世之れを知るものなし、或は中井竹山に師事せしならんといふものあれども、是れ唯々臆測のみ、何等の證左あるにあらず、

兎に角中斎は少小より文武を兼修し巧名気節を以て祖先の志を継がんと欲するの念多く、未だ学問を以て身を立てんと欲するに至らず、与力の業を務め、獄吏囚徒の間に閲歴を累ぬるに及んで、始めて深く学問の必要を感ぜり、

中斎是に於てか江戸に適き、林述斎の家塾に入り、儒学を講究し、刻苦励精、其行の方正にして其進歩の速なる、常に儕輩を凌げり、

是を以て、述斎も大に望を属し、他の諸生を誡むるや必ず学問躬行宜しく平八郎に則るべきを以てせり、中斎自ら「祭酒林公亦愛僕人也」といへるを以て其辺の消息知るに足るなり、

中斎又学問の余暇を以て力を武術に用ひ、刀槍弓銃悉々く其技を修め、殊に槍術に至りては、其秘奥を究め、後来関西第一の名を博するに至れり、

洗心洞余瀝に云く、


井上哲次郎「大塩中斎」その2
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