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2001.10.20修正
2000.5.12

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「大 塩 中 斎」 その2

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎 
第一 事 蹟
 (2)

中斎が江戸に留学せしは、未だ其果して何歳の時なるやを知らず、或は十五歳といひ、或は二十歳といふ、熟々其佐藤一斎に与ふる書の旨意を考ふるに、後説是に近きが如し、

其留学の年数に就いても、或は三年といひ、或は五年といひ、諸説一定せず、何づれにせよ、彼れは年少の時、数年間江戸に滞在して、述斎に師事し、其非凡の才学を露はせり、

述斎亦特に彼れを鍾愛し、彼にして一たび帷を上国に下さんか、余も亦聊か面目を施すに足れりと喜べり、

會々養祖父重症に嬰れりとの報道に接し中斎倉皇旅装を整へ、大阪に帰り、慰藉看護、投薬奉養、一日も怠らざりしも、祖父の齢已に古稀に近きを以て児孫の誠心に酬ゆるに至らず、終に文政元年六月二日を以て世を去れり、

是に於て、中斎家に留まりて、復た与力の業を務む、時に年二十有六、

中斎が司どれる職は頗る賤陋なり、若し尋常人ならば、殆んど治績の見るべきものあらざるべし、然れども彼れ本と千里の駒にして、衆に過ぐれたる気力と才識とを有せり、故に治績の見るべきもの少しとせず、

然れども若し彼れにして一の知己をも得ざりしならば、事此に出づること能はざりしならん、然るに幸に一の知己を得たり、

文政三年十一月十五日高井山城守実徳、伊勢山田奉行より転じて大阪東町奉行となれり、彼れ頗る鑑識に富み、竊に中斎の才気絶倫なるを看取し忽ち抜擢して吟味役となせり、是れ中斎が二十七才の時なり、

中斎山城守の値遇を得て、大に其驥足を伸ばすを得たり、当時大阪の吏人、不法無状を極め、愛憎によりて刑罰を加減し、金銭によりて生殺を取捨するの風あり、是を以て市民の吏人を畏忌すること蛇蝎の如し、

中斎乃ち此弊を一掃せんと欲し、邪を折き、正を救ひ、奸を懲らし、善を助け、大 に刷新の実を擧ぐるを得たり、

嘗て淹滞せる一訴訟あり、数年に亘りて決せず、山城守乃ち中斎に命じて之れを断ぜしむ、

原告此事を伝聞し、一夜密に菓子一筐を彼れに餽りて、理を得んことを陳請す、明旦中斎原被両者を法廷に召して審問するに、両者互に論争して相下らず、中斎之れを聴き了はり、原告の不法なるを知り、反覆弁難して、其譎詐を責めけるに、原告辞屈して遂に罪に伏す、

積年の難訟も此の如く一朝にして決するを得たり、是に於てか中斎彼の菓子筐を出だし、笑ひて同僚に告げて曰く、「諸君菓子を好むが故に訴訟容易に決せざるなり」と、乃ち其蓋を取れば黄白内に充ち、粲然目を射る、一座皆赧顔背に汗して其言う所を知らざりき、

中斎が公正廉直にして同僚を憚からざること率ね此の如し、為めに能く時の流弊を矯正するを得たり、


石崎東国「大塩平八郎伝」その23
相蘇一弘「大塩の林家調金をめぐって」


井上哲次郎「大塩中斎」その1その3
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